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「ナルニア国物語」について 第11回2.「カスピアン王子のつのぶえ」(3)牧師 藤掛順一
トランプキンと四人の子供たちは、「アスラン塚」(石舞台)のカスピアンと落ち合うために出発しました。その旅はつらく苦しいものとなりました。彼らは昔王、女王だったころの記憶を頼りに、できるだけ近道を通ってアスラン塚にたどりつこうとしましたが、彼らのいた頃とは全く違って、周囲は深い森になっており、道が定かではありません。ようやく、目指していた川にたどりつきましたが、そこは彼らがいた頃とは違う峡谷となっていました。その川を渡り、向こう岸の丘を昇れば石舞台に着けるはずでしたが、その峡谷を越える道が見つかりません。仕方なく彼らは峡谷へ降りて川ぞいに右へ行こうとします。 その時、ルーシィはアスランの姿を見ました。アスランは彼らが今下っていこうとしたのとは反対の、峡谷の上の左の方におり、ルーシィには、アスランが彼らに自分の方に来ることを求めていることがわかりました。しかし他の誰にもアスランの姿は見えません。見たのはルーシィだけでした。上るか下るかの議論になり、投票で決めることになりました(このへんがイギリス人らしいところです)。トランプキンとスーザンは下る方に、ルーシィとエドマンドは上る方に投票しました。エドマンドの言葉は印象深いものです。「ぼくたちがはじめてナルニアを見つけた時、一年前、あるいは一千年前かもしれないが、いずれにせよあの時、ここをはじめに見つけたのは、ルーシィで、それをだれも信じなかった。しかも、それで一番悪かったのは、このぼくだ。でも、結局ルーのいうとおりだったんだ。こんどもルーのいうことを信じて、まちがいないんじゃないかなあ?ぼくは、のぼる方にさんせいだ」。しかし最終的にはピーターが下る方に決断を下しました。 谷を下ってからの彼らの歩みはますます困難になりました。途中でミラースの軍勢に発見され、命からがら逃げなければなりませんでした。その夜、みんなが疲れ果ててぐっすり眠っていると、ルーシィは自分の名前を呼ぶ声で目を覚ましました。ルーシィが起き上がり、声の方に行ってみると、森の木々が動きまわり、踊っていました。長い間眠りについていた木々の精が目を覚ましたのです。その木々の踊りの輪の中に、アスランその人がいました。ルーシィとアスランのひさしぶりの出会いの場面です。 「よくきたな、わが子よ」とアスランがいいました。「アスラン、あなたは、またひときわ大きくなりましたわ。」とルーシィ。「それは、あんたが大きくなったせいだよ、ルーシィ。」 「あなたが大きくなったからでは、ありませんの?」「わたしは、大きくならないよ。けれども、あんたが年ごとに大きくなるにつれて、わたしをそれだけ大きく思うのだよ。」 これは印象深い会話です。普通は、人が成長すれば周囲のものはだんだん小さく見えてくるのです。しかしアスランは、つまり主イエス・キリストは違います。私たちが成長すればする程キリストは大きく思えてくる、つまり、その偉大さ、恵みの大きさがわかってくるのです。さらにアスランはこう言います。「ルーシィ、わたしたちは、ここにゆっくりしていられない。あんたもすぐにとりかかるんだ。きょうはすっかり時間をつぶしたねえ。」「ええ、ほんとに面目ありません。わたし、あなたをはっきり見ましたの。でもみんなは、信じてくれませんでした。みんなったら、そりゃ−」アスランのからだのどこか奥のほうから、つよいうなり声が出てくるようすが、かすかに感じとられました。ルーシィは、アスランの気もちがわかりましたので、「ごめんなさい」とあやまって、「でもわたし、何もほかの人のせいにして、悪くいうつもりじゃなかったんです。でも、とにかくわたしのせいではないわ。そうでしょ?」アスランは、ルーシィの目をまっすぐに見つめました。「ああ、アスラン。」ルーシィがいいました。「わたしのせいだと、おっしゃるんじゃないでしょ?どうしてわたし、わたし、みんなから離れて、ひとりであなたの方へのぼっていくことができましょう?そんなふうに、見つめないで…ああ、いいます。わたし、やればできたはずでした。そうよ、そうなれば、あなたといっしょになるから、ひとりではなかったはずだわ。けれども、その方がよかったかしら?」アスランは、何もいいませんでした。 ルーシィは、小さな声になりました。「では、その方が、うまくいったはずだ、とおっしゃるのね。どういうわけです?どうしてです?ね、お願いです、アスラン、わたしがそれを知ってはいけませんか?」「そうしたらどうなったろう、ということをかね、わが子よ?」アスランがこたえました。「それはいけない。だれもそれは教えてもらえないのだ。」 「まあ。」「だが、これからどうなるかを、たずねもとめることは、だれにでもできる。さあ、これから、みんなのところへ帰って、起こしなさい。そして、あんたがふたたびわたしを見たことを、みんなに話しなさい。あんたがみんなを目ざめさせて、わたしの方へつれてくるのだよ。それからどうなるか?これが、それをたずねもとめる、ただ一つのやりかたなのだ。」「それが、わたしにしてほしいとおっしゃることなんですね?」とルーシィが、あえぎながらたずねました。「そうだ、わが子よ。」とアスラン。「ほかのひとにもあなたが見えるでしょうか?」「はじめは、見つからないだろうね。」アスランはこたえました。「ひとによって、だんだん見えるだろう。」「でも、あのひとたち、わたしのいうこと、信じようとしないんです。」「そんなことにかまうな。」 こうしてルーシィは他の四人を起こしにいきます。ここでのアスランの言葉は、いろいろなことを考えさせます。もしもこうしていたらどうなっただろうということは誰も知ることはできない、しかし、これからどうなるかをたずね求めることは誰にでもできる、これは、人生やりなおしはきかないのだ、ということでもありますが、また同時に、どこからでも前へ進むことはできるということです。それは自分の罪や過ちへの後悔にさいなまれている者への救いの言葉です。また、みんなを起こしに行くルーシィの姿は、私たちの伝道、証しの姿と重なると言うことができます。人々はなかなか目を覚まそうとしないし、すぐにはアスランの(キリストの)お姿が見えないのです。そのような中で、何とかしてアスランのことを人々に伝えようとする、それが伝道です。そのような伝道へと私たちは主イエス・キリストによって遣わされています。そして、最初は主イエスのことが見えない人々が、だんだんに見えてくるのです。その時期は人によって違います。そこに至るまで、私たちはいろいろと苦労をするのです。人々の無理解に苦しみ、わかってもらえないつらさを味わうのです。誰よりも先にアスランと出会い、アスランを見ることができたルーシィは、そのようなつらい使命を与えられて遣わされるのです。 |
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