富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(97)

 十戒の第五の戒め、「あなたの父母を敬え」についてのお話を続けます。前回は、この戒めの意味が、「自分を生んでくれた父母を敬え」ということなのではなくて、神様が、その両親の下に自分を生まれさせ、その両親の血を受け継いで生きるように私たちにお命じになった、その神様のみ心を受け入れ、尊重することを教えているのだ、ということをお話ししました。つまりこの戒めも、十戒の他の教えと同じく、神様を信じ、神様に従うということと無関係なものではないのです。「父母を敬え」というのは、一般の道徳においても言われることですし、特に宗教的な、信仰の裏付けがなくても語られることです。十戒にもそれと同じことが語れているのではなくて、形の上では同じことが、より深い信仰的、宗教的な根拠を与えられているのです。その根拠は、神様がこの世界と、そして人間をお造りになり、人間を男と女とにお造りになり、一人の男と一人の女とが結婚して一体となる、そこに子供が与えられる、そのようにして下さった、天地創造のみ業にまで遡ります。父と母とがいて自分が生まれて来た、そこに単なる「雌雄の交接による種の保存」以上の、神様のみ心を見ていく時に、私たちの人生観、生命に対する思い、そして親についての思いが変わってくるのです。

 私たちはよく、「親からもらった命と体」という言い方をします。それが、「神様が父と母を通して与えて下さった命と体」になるのです。その時に、私たちの、両親への感謝は、神様への感謝の中に位置づけられるのです。そうであってこそ、両親を敬うことができるのではないでしょうか。現実の親と子の関係というのはいろいろと複雑なものです。親が子をいつも本当の愛ではぐくみ、養い、育てているとも限りません。子を捨てたり、虐待する親だってあります。親の間違った愛が子をだめにしてしまう、ということもあります。子供の方も、親が親であるというだけで、いつも敬い、尊敬できるわけではありません。親を恨み、憎しみを懐く場合だってあります。そういう現実の中では、「この命と体は親からもらったのだから」というだけで本当に親を敬うことはできないのです。しかし自分の命と体は神様が、あの両親を通して与えて下さったものだという信仰に立つならば、親に対する見方が変わってくるのです。たとえ自分にとって親の存在は少しも有難くない、むしろ憎しみしか覚えない、そんな親子関係であっても、この親の下に自分が生まれた、ということに込められている神様のみ心は何なのだろうかと求めていくことになるのです。そのようにして、親を自分の親として受け止めていくことこそが、「父母を敬う」ことの第一歩なのではないでしょうか。そのことは、自分に親をも与えて下さった神様を信じることから始まるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年3月31日〜4月13日]

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