富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(92)

 「十戒」の第四の戒め、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」についてのお話しをしています。前回は、この戒めが、神様が六日間で世界と人間をお造りになり、七日目に休まれたことを根拠としていることをお話ししました。神様が休まれたから、人間も休むのです。このことは、「休む」こと自体に積極的な意味と価値があるということを教えていると申しました。

 私たちは、人間は疲れるものだということを知っています。仕事にしても勉強にしても、あるいは遊びにしても、四六時中ずっと続けていることはできない。疲れ切ってしまうのです。だから休まなければならない。休むことによってもう一度気力や体力を回復してこそ、それを続けることができるのです。それは、人間の持続力には限界があるということです。休まなければならないのは、人間のそういう限界によることだと私たちは感じます。そうである限り、休むことは、積極的な価値のあることにはなりません。休まないでずっと続けられればその方がよいのだが、それは限界ある人間には無理だから、仕方なく休まざるを得ない、ということです。

 しかし聖書は、神様が休まれたと言います。神様は人間と違って、限界のない方です。無限の力、全能の力を持っておられる方です。その方が、七日目に休んだというのです。私たちはそれを聞くと、なんだか変だと思うのではないでしょうか。神様も疲れるのだろうか、休息が必要なのだろうか、そんなの神様らしくない、と思うのです。それは、休むということを、限界ある人間は疲れるから休まざるを得ない、という私たちの感覚で捉えているから感じることです。神様が休まれたのは、疲れたからではありません。全能の神は疲れることはないのです。それではなぜ休んだのか。それは、お造りになった世界と人間とを見て、喜ぶためだったのです。私たちも、何か上手な作品を完成することができた時、それをしげしげと眺めて満足する、ということがあります。それと同じことを神様は、世界と人間の全てに対して、七日目になさったのです。

 私たちの場合にはそれは、自己満足に浸ることでしかないかもしれませんが、神様の場合にはそうではありません。創世記の第1章には、神様が何かを創造され、それを見て「良しとされた」ということが繰り返されています。そして最後に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。この世界と人間は、極めて良いものとして造られたのです。神様はそれを見て喜ばれたのです。それは全てのものを祝福されたと言ってもよいことです。第七の日に、神様が創造の業を休んでなさったことはこの喜びと祝福だったのです。それを記念して、神様は人間にも、七日目に休めとおっしゃいました。それは神様の喜びと祝福に私たちをあずからせて下さるためです。このことによって私たちの休みは、疲れを回復するという以上の、積極的な意味を得ることになるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年1月19日〜2月2日]

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