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テレホンメッセージ「救いの歴史」(89)「十戒」の第三の戒め、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」についてのお話しを続けます。この戒めは、神様を自分の支配下に置き、自分の思い通りに動かそうとすることを禁じているのだということを前回お話ししました。神様のお名前をみだりに唱えるというのは、それを自分のために利用しようとすることなのです。 そのことの一つの表れとして、神様のお名前によって誓う、ということがあります。日本語にも、「神かけて」という誓いがありますし、「天地神明にかけて誓う」という言い方もあります。「主の名をみだりに唱える」ということでまず考えられているのは、このような誓いの場面に神様のお名前を持ち出すことなのです。 そもそも、「誓い」というのは何のためにあるのでしょうか。「誓って言う」というのは、自分のこの言葉は真実だ、偽りではない、ということを強調する時に使われる言い方です。普通に語っていることには偽りが入っていることがあるけれども、誓って語るこのことは偽りではない、真実だと言っているのです。そのことからわかるように、「誓い」ということがなされるのは、人間の語る言葉がいつも真実というわけではないからです。人間は時として偽りを語る、嘘をつくのです。だから、「少なくともこの言葉は真実です」と言うために「誓う」ということが起るのです。その時に神様が持ち出されるのは、神様に、自分の言葉が真実であることを証明する証人になってもらおうということです。人間の目はごまかせても、神様の目を欺くことはできません。その神様に見つめられても平気である真実を自分は語っているということです。つまり神様にかけて誓う言葉というのは、神様の前で語られている言葉なのです。 しかし、神様の前で語られている言葉があるということは、その他の言葉は神様の前で語られていない、そこに神様がおられない、ということです。その言葉には偽りがあってもよい、ということになるのです。しかしそもそも人間は神様をそのように、自分の必要に応じて呼び出したり、ちょっとあっちへ行っていてもらったりできる者でしょうか。神様はそのように私たちの懐の中に仕舞い込まれているような存在ではなく、むしろ常に私たちと共にあり、私たちの全ての行為と言葉とを見ておられ、聞いておられる方なのです。ですから、私たちの言葉は、誓おうと誓うまいと、全て、神様のみ前における言葉なのであり、神様がそれを聞いておられるのです。神様のみ名によって誓うことは、そのことをわきまえておらず、神様を自分の都合によって呼び出すようなふるまいです。それこそが、「主の名をみだりに唱える」ことの問題なのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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