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テレホンメッセージ「救いの歴史」(88)神様がイスラエルの民に与えた十の戒め、「十戒」についてのお話しをしています。今回からその第三の戒めに入ります。それは、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」というものです。神様のお名前をみだりに、つまりやたらに口にしてはならないというのです。 この戒めの意味を理解するためには、古代の人々にとって、「名前」というものの持っていた意味を知らなければなりません。「名は体を表す」という諺がありますが、古代の人々はそれ以上に、名前とその人そのものとを結びつけて考えていました。それはどういうことかというと、相手を名前を知り、それを唱えることによって、その相手を自分の支配化に置き、思い通りにすることができる、と考えたのです。だから、相手の名前を知ることは大きな意味を持っています。先に相手を名前を知った方が主導権を握れるのです。「名を名乗れ」と言って相手に先に名乗らせることができる方が上位に立つのです。目下の者は目上の人に対して先に名乗るのが礼儀だ、というのはそういう感覚から来ているのでしょう。 そのように考えれば、「主の名をみだりに唱える」ことの意味はよくわかります。それは、神様を自分の支配化に置き、自分の思い通りに動かそうとすることなのです。ですからこれは、単に神様の名前を口にする、というだけのことに止まりません。例えば、何かの呪文を唱えることによって、思い通りの結果を引き起こそうとすること、それも「主の名をみだりに唱える」ことの一種です。要するに神様の力を、自分のために利用しようとすることが禁じられているのです。 なぜそれが禁じられているのか。それは説明するまでもないでしょう。私たち人間が神様の力を利用するとなれば、私たちの方が神様より上に立っていることになります。神様が私たちを支配しておられるのではなくて、私たちが神様を支配し、自分の召し使いのようにあれこれと命令するような関係になってしまうのです。それが正しくないことは誰でもわかります。けれども考えてみると私たちは、そういう間違いをいつも犯しているのではないでしょうか。神様というのは自分が何かをお願いしてそれを適えてもらうための存在だと思っているふしがあるのではないでしょうか。神様をそういうふうに思っているならば、どんなに祭り上げ、敬っているようなふりをしていても、本質的には、私たちが主人であって神様は奴隷ということになります。この戒めは、私たちに、あなたにとって神様は奴隷なのか、それとも主人なのか、という問いをつきつけているのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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