富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(85)

 今このテレホンメッセージでは、旧約聖書、出エジプト記第20章にある「十戒」についてのお話をしています。神がイスラエルの民にお与えになった十の戒め、神の民として生きるための指針です。今とりあげているのはその第二の戒め、「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。

 この戒めは、神として拝み、礼拝する対象としての像、即ち「偶像」を造ることを禁止しています。それ以外の目的での、例えば芸術作品としての塑像や彫刻を禁じているわけではありません。神様を、目に見える姿に刻んだり彫ったりしてはならない、つまり神様を目に見える形に表してはならないということです。

 なぜ神様を目に見える形にしてはならないのでしょうか。それは、目に見える形に表された神はすべて、人間が自分で考えて作り出したものだからです。神様についての人間のイメージを形にしたのが偶像なのです。しかし生けるまことの神様は、私たち人間のイメージをはるかに超えた方です。人間が神様のことを想像して形に刻むことは、海の水を一杯コップにすくって、「これが海だ」と言っているようなものなのです。

 けれどもそれでは、私たちはどのようにして神様のことを知ることができるのでしょうか。神様のことをある程度でも知ることができなければ、信じることも、従うこともできません。信仰というのは、神様のことがある程度なりとも「分かる」ことを前提としているのです。偶像はそのために生み出されたとも言えます。目に見えない神様を見える形で示し、人々にそのイメージを与える、それはむしろ必要なことなのではないかとも思えるのです。

 しかし聖書は、そういう偶像を造ることを厳しく禁じます。それは聖書が、私たちに、目に見えない神様を知るための別の手段を示している、ということです。その別の手段とは、言葉です。聖書に記されている神様の言葉、いや、聖書そのものが神の言葉なのです。その聖書を通して、神様はご自身を私たちに示しておられる。だから私たちは聖書から、神様のことを教えられ、神様がどんな方であられるのかを知らされるのです。「いかなる像も造ってはならない」という戒めは、神様が、「わたしは聖書を通してあなたがたに言葉によって語りかけている。その言葉を聞いて、それによってわたしのことを知れ。それ以外の、自分が作り出したイメージをわたしに押し付けてはならない」ということなのです。聖書の教える信仰は、神様を目で見ることよりも、聖書を通してそのみ言葉を聞くことを中心とする信仰なのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年9月30日〜10月13日]

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