富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(84)

 「十戒」の第二の戒め、「あなたはいかなる像も造ってはならない」についてのお話を続けです。前回申しましたようにこれは、神として拝んだり、礼拝したりする対象としての像、即ち「偶像」を造ることを禁止する戒めです。人間が造った偶像と、生けるまことの神様との違いを印象的に語っている聖書の箇所を紹介しましょう。旧約聖書、イザヤ書第46章の1〜4節です。

ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く。
わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。
あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

 ここに、ベルとかネボと言われているのが、偶像の神の名です。それらの偶像は、獣や家畜に背負わされ、重荷となっていくと言われています。それは、国が戦いに敗れて逃げていくときのことです。偶像の神はその国を救う力はなく、また自分の足で逃げることもできないので、むしろ、負けて逃げて行く人々の重荷となるのです。そして結局偶像を担いでいる民は疲れ果て、敵に捕えられてしまうのです。

 それに対して、ここで「わたし」と言っている生けるまことの神は、逆に、「わたしがあなたたちを背負って行く」と言っておられます。まことの神様は、人間に背負われ、重荷になるのではなくて、私たちを背負って下さり、救い出して下さるのです。「わたしはあなたたちを造った」と言われています。人間が神様を造るのではなくて、神様が私たちを造って下さったのです。そして私たちを造って下さった神様は、ご自分がお造りになった私たちに対して、最後まで責任を持って面倒を見て下さるのです。「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」というのはそういうことです。生けるまことの神様は、そのように私たちのことを最後まで背負い、導き、救い出して下さる方です。「いかなる像も造ってはならない」という第二の戒めは、私たちが、この生けるまことの神様のもとで、神様に背負われて生きる者となるための道を教えているのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年9月16日〜9月29日]

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