富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(83)

 「十戒」の第二の戒めへと進んでいきたいと思います。第二は「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。出エジプト記第20章4節以下を読むとこうなっています。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」。「それらに向ってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」とあるように、これは、神として拝んだり、礼拝したりする対象としての像、即ち「偶像」を造ることの禁止です。神様を、目に見えるものの姿に刻んではならないのです。

 どうして神様の像を造ってはならないのでしょうか。神々の像を造り、それを神殿に安置してそれに向って礼拝することは、当時のイスラエルの周囲の諸民族において、むしろ当然のことでした。それをしないイスラエルの民の方がよほど変わっていたのです。けれどもそこに、イスラエルの受け継いだ信仰の大切な特徴がありました。それを一言で言えば、自分に都合の良い神様を造り出さない、ということです。

 偶像とは、人間が考えて造り出した神様です。人間はこの世界の中のものしか知りませんから、神様を作り出す時にも、この世界の中の何かの形に似せて作ることになるのです。だからその姿は人間と同じであったり、何かの動物の姿であったり、あるいはいくつかの動物を組み合わせて造られたりするのです。そのように偶像には、それを造る人間の思いが投影されます。それは形だけでなく、その神様がどのような神であるか、どのような救いや恵みを人間に与えるかということにおいても同じことが起ります。病気が治って欲しいと思っている人は癒しを与える神様を、お金が欲しいと思っている人は商売繁盛の神様を作り出すことになるのです。偶像とはこのように、人間が自分の願い、希望、都合に従って動いてくれる便利な神様を求めて行くところに生まれるものなのです。

 イスラエルの民の主であられる神様は、彼らに、偶像を造ることを禁じました。それは、神様が、人間の思いや都合の通りに動く便利な存在であることを拒否したということです。それは言い換えれば、神様が本当の、生きた神であられることを宣言なさったということです。人間の思い通りに造られ、人間の都合に従って動く神など、本当の神ではありません。そんなあやつり人形のような神は、神ではなくて人間の奴隷です。偶像を造るというのは、実は、人間が、神様を自分の思い通りにうごくあやつり人形にし、自分の奴隷にしようとしていることなのです。本当の神様はそのようなことを拒否します。「あなたはいかなる像も造ってはならない」という十戒の第二戒は、聖書の語る神様が生きた、本当の神様であられることのしるしであると言うことができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年9月2日〜9月15日]

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