富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(86)

 旧約聖書、出エジプト記第20章にある「十戒」についてのお話をしています。その第二の戒め、「あなたはいかなる像も造ってはならない」についてのお話しを続けます。

 出エジプト記20章におけるこの戒めの言葉は、実はかなり長い文章になっています。その後半にはこういう言葉があるのです。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」。
ここで神様はご自分のことを「わたしは熱情の神である」と言っておられます。この「熱情の神」というところは、以前の訳では、「妬む神」となっていました。「熱情の」とは「妬む」という意味でもあるのです。神様は妬む神である、と聖書は語っているのです。

 妬みというのは、私たち人間が抱くいろいろな感情の中で、最も醜い、またそこからいろいろな問題や罪が起ってくるものだと言えるでしょう。自分の中にある妬みの思いに気づいて、自分がいやになることがよくあります。ですから神様が「妬む神」であられるなど、神様に相応しくない、神様らしくないことだと思うのです。

 けれども聖書は今申しましたように、神様は妬む方だと平気で語ります。神様ご自身がそう言っておられるというのです。新約聖書にもそういう箇所があります。ヤコブの手紙4章5節に、「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる」という言葉があるのです。この言葉に示されているように、「妬む」とは、それほどに深く相手を愛するということです。私たちの抱く妬みもそうでしょう。相手のことを真剣に愛しているから、その相手が他の人と親密になると、その人のことを妬ましく思うのです。神様が妬む神であられるというのもそれと同じです。神様は、私たち一人一人のことを、本当に真剣に愛しておられるのです。私たちと、おざなりでない、深い交わりを持とうとしておられるのです。だから、私たちが、他の神々を拝んだり、人間が手で造った偶像を神としたりすることにはお怒りになるのです。つまり、「いかなる像も造ってはならない」という戒めは、神様の、私たちへの真剣な愛の表明なのです。人間が造った偶像の神は、愛する相手ではなくて、利用するだけのものです。そういう関係ではなくて、私たちを真剣に愛していて下さる神様を私たちも真剣に愛して生きることを聖書は教えているのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年10月14日〜10月27日]

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