(74)←「救いの歴史」→(76) |
テレホンメッセージ「救いの歴史」(75)主なる神様が、シナイ山で、イスラエルの人々と契約を結んで下さったということについて、前回からお話ししています。前回は、この契約が、神様の恵みとして与えられたものであることをお話ししました。契約というと、私たちは普通、対等な関係にある者どうしの、取り引きの契約ということを思い浮かべます。しかしこの契約は、そのような商売上の契約や売買契約のようなものとは違うのです。人間は神様と取り引きをすることはできません。神様は恵みを与えて下さる方であり、人間はそれを受ける者です。神様と人間の関係は決して対等ではないのです。イスラエルの民も、エジプトでの奴隷の苦しみから、主なる神様によって救い出され、神様が与えると約束して下さった地に向けて歩んでいる、そういう神様の恵みを受けている者として契約を結んだのです。いや、結んだと言うよりも、結ばせていただいたのです。 しかし、それならどうして「契約」などと言うのでしょうか。そんな対等でない、恵む者と恵まれる者という関係では、「契約」などということは成り立たないはずではないか、と思う人がいても不思議ではありません。まさにその通りなのです。神様と人間の関係は、本来、契約などということが相応しくないものです。それは、造り主と造られた者、救う者と救われる者、裁く者と裁かれる者という関係です。それにもかかわらず、神様は人間と契約を結んで下さる、それが聖書の語る神様の恵みです。契約を結ぶということは、約束をすることです。そして、約束したことを必ず守り行う義務を負うことです。契約違反や契約不履行は重大な罪になるのです。主なる神様は、本来契約の相手になどなれないはずの私たち人間と契約を結んで下さった、それは、私たち人間に対して、果たさなければならない義務を負って下さったということです。支配し、救いたければ救い、滅ぼしたければ滅ぼすことのできる方であるはずの神が、人間に対して果たさなければならない義務を負って下さった、それは驚くべきことです。考えられないことです。しかし神様はそのようにして下さった、と聖書は語るのです。それは、神様が私たち人間を、ある意味でご自分と対等な者と見て下さったということです。あるいは私たちと対等になるところまで、徹底的にへりくだって下さったということです。神様がイスラエルの民と契約を結んで下さったことは、そのようなとてつもない恵みによることなのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
(74)←「救いの歴史」→(76) |