富山鹿島町教会
(72)←「救いの歴史」→(74)

テレホンメッセージ

「救いの歴史」(73)

 「救いの歴史」というタイトルのもとに、旧約聖書創世記の第12章以降についてのお話をしてきました。今回でその第73回になります。前回お話ししたのは、出エジプト記の第16章についてでした。エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民は、神様が与えて下さった天からのパンであるマナによって養われながら、神様が約束して下さった地を目指して、荒れ野を歩んでいます。その旅路は、神様を信じてこの世を生きる信仰者の生活と重なるということをお話ししてきました。

 今回は、出エジプト記の第17章を見てみたいと思います。その前半には、荒れ野で飲み水のなくなってしまった民が、モーセに不平を言い、自分たちをエジプトから連れ出したことに文句を言ったということが語られています。同じことは前にもありました。苦しみにあうと、奴隷状態から救い出して下さった神様の恵みをすぐに忘れて文句を言う人間の弱さがここにも語られています。前回と同じようにこのときも、モーセが、神様の命令によって、杖で岩を打つと、そこから水が出て、民は飲むことができました。神様はそのようにして、恩知らずなイスラエルの民の歩みを支えて下さったのです。

 さて、17章の後半には、イスラエルの民が、アマレクという他民族と戦ったことが語られています。その戦いを指揮したのは、ヨシュアという人でした。モーセは、戦場を見下ろす丘の上に立っていました。そこでモーセが、手を上げている間はイスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になりました。それで、モーセは石の上に座り、従者たちが両側から手を支えて、モーセの手が上がったままにしておきました。それによってイスラエルはアマレクとの戦いに勝つことができたのです。

 この「手を上げている」という姿勢は、祈りの姿勢だと言われます。昔のイスラエルの人々は、両手を高く天に向けて上げて祈ったのです。つまりこの話は、モーセがイスラエルのために祈り続けている間は、イスラエルは敵に打ち勝つことができた、ということを言い表しています。イスラエルの民の荒れ野の歩みは、神様への祈りの歩みでもあります。祈って神様からの恵みと力を受けることによってこそ、彼らは歩み続けることができたのです。これもまた、私たちの信仰の歩みと重なることだと言うことができるでしょう。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年4月1日〜4月14日]

メッセージ へもどる。

(72)←「救いの歴史」→(74)