富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(72)

 荒れ野を歩むイスラエルの民に、神様が与えて下さった天からのパンである「マナ」についてのお話しをしています。聖書の箇所で言うと、出エジプト記の第16章です。マナは、原則として、毎日、その日の分だけを集めるものとされていました。二日分集めて翌日まで取っておくと、臭くなって食べられなかったのです。しかし安息日の前日だけは、二日分を集めて取っておくようにと神様は言われました。そのようにして安息日のために保存しておかれたものは、臭くならなかったのです。 このことの持つ別の意味について考えたいと思います。それは、神様からの養いの恵みは、その日その日に与えられるということです。マナは、神様が天からの恵みによってイスラエルの民を養って下さることを象徴しているものです。その養いは、毎日、その日の分が与えられるのです。それを二日分、三日分まとめて受けて、貯めておくことはできないのです。神様の恵みはそのように、日々新たに与えられます。私たちは毎日、新しくそれを求めつつ歩むのです。

 さらに、このマナについて、申命記第8章3節にこのような言葉があります。 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

 マナが与えられたのは、ただ食物が与えられたということではありません。そのことによって、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」のだということが示されたのです。神様の養いの恵み、それは神様のみ言葉、神様が私たちに語りかけて下さることによって与えられるものです。その神の言葉によって、私たちは生きるのです。 「人はパンだけで生きるものではない」というイエス・キリストの言葉は、この申命記8章3節の引用です。キリストがこれを語られたのは、パンだけでなく着るものも、住む家も必要だ、ということではなくて、人は神様のみ言葉によってこそ生きることができる、ということを教えるためでした。そしてそのみ言葉は、毎日新しく求めていかなければならないものなのです。神様からの語りかけを毎日新しく受けながら、神様と共に生きる。それが、聖書の教える信仰の姿なのです。そういう意味で、イスラエルの民の荒れ野の歩み、そこで日々マナによって支えられていった姿は、私たちの信仰の生活を象徴しているのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年3月4日〜3月17日]

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