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テレホンメッセージ「救いの歴史」(71)荒れ野を歩むイスラエルの民に、神様が天からのパンである「マナ」を与えて下さったことを語る、出エジプト記第16章についてお話ししています。前回は、このマナの持つ不思議な性質として、「多く集めた者にも余ることはなく、少なく集めた者にも足りないことはなかった」ということをお話ししました。マナの不思議な性質はそれだけではありません。その日の分を一部、翌朝まで残しておくと、翌朝には虫が付いて臭くなっており、食べられなかったのです。それは、マナはいわゆる「足が早い」、腐りやすい、ということではありません。実は、週の六日目には、翌日の分まで含めて、いつもの二倍を集め、翌日までとっておくように命じられていたのです。週の七日目、それはいわゆる安息日です。その日には、一切の仕事を休むことが神様から命じられていました。神様による天地創造のみ業が、六日間で行われ、七日目には神様が休まれた、そのことを覚え、神様の恵みを思いつつ過ごすためです。マナを集めることも、食物を得るための仕事になります。安息日にはそれをしないですむように、その前日の六日目には、二日分のマナを集めることになっていたのです。その日に集めたマナは、翌日になっても臭くなりはしませんでした。ところがその他の日に集めたマナは、翌日までとっておいたらもう食べられなくなっていたのです。 このことは、このマナが、単なる「食料」ではなく、神様がイスラエルの民を日々その恵みによって養って下さることのしるしだということを意味しています。荒れ野を歩むイスラエルの民は、神様の恵みによって日々養われたのです。六日目に二日分を集めることができたのは、神様が彼らに安息日を守らせてくださるためです。安息日には人間の仕事をやめ、神様の恵みを思いつつ生きる、そういう歩みを支えるためにマナは与えられたのです。それ以外の日に余分に集めて取っておいたマナが翌日には臭くなってしまったというのは、このマナを人間が自分の財産として蓄えることはできないということです。神様の恵みは人間の所有物となってしまうことはないのです。神様の恵みを自分の財産にして、自分の思いによって用いようとすると、それはだめになってしまい、使い物にならなくなってしまうのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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