富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(68)

 イスラエルの民は、エジプトの奴隷状態から神様の導きによって救われました。そこから今度は、神様が約束して下さった「乳と蜜の流れる地」へ向かっての旅が始まりました。彼らが旅していったのは「荒れ野」です。それは決して、旅していくのに楽なところではありません。むしろ苦しいことの多い旅です。その荒れ野の旅は、神様を信じる信仰をもってこの世を生きる者が受けなければならない試練を象徴しています。その荒れ野の旅を見つめていきたいと思います。

 出エジプト記第15章22節以下に次のようにあります。
「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。民はモーセに向かって、『何を飲んだらよいのか』と不平を言った。モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。」
これは、彼らがあの「葦の海の奇跡」、海が分かれてその間の道を通って向こう岸へ逃れることができたというあの大いなる救いの奇跡を体験したすぐ後のことです。あれほど大きな救いのみ業を体験したのに、イスラエルの民は、荒れ野の旅において少し苦しいことがあるとすぐに不平を言い始めるのです。この場合には飲み水がないということでした。泉はあるにはあるが、水が苦くて飲めなかったのです。民の不平を聞いたモーセが神様に助けを求めると、神様はその水を甘くする、つまり飲めるようにする手立てを与えて下さったのです。

 この出来事が、これから荒れ野の旅路において何度も繰り返されていくことの始まりでした。イスラエルの民は、この旅路において、苦しいことがあるとすぐに文句、不平を言ったのです。それは、エジプトの奴隷状態からの解放を実現して下さった神様の大いなる恵みと、人間の力はとうてい及ばないような大きな力、大自然をも従わせる力を見たはずなのに、いざ目前に苦しみが迫ってくると、そんなことは忘れてしまい、疑いに陥ってしまうということです。それはとんでもない恩知らずです。しかし神様はそのような彼らに、その都度、救いのみ手を差し伸べ、彼らの歩みを守り導いて下さいます。イスラエルの民の荒れ野の旅は、この民の恩知らずと、神様の忍耐強い導きとによって織り成されていくのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年1月7日〜1月20日]

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