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テレホンメッセージ「救いの歴史」(69)エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民の、荒れ野の旅についてお話ししています。今回は、出エジプト記第16章1節以下を読んでみましょう。 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」 イスラエルの民は、またもや、今度は食べ物がないと言って不平を言いました。しかも、「エジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは腹いっぱい食べられたのに」というのです。これは全く事実と違います。エジプトにいた時、彼らは奴隷だったのです。腹いっぱいおいしいものを食べられていたなんていうことはありません。まともな食べ物もない中でこき使われていたのです。その苦しみからモーセとアロンが、それは即ち神様がということですが、救い出してくれたのです。それなのに、荒れ野で少しひもじい思いをすると、エジプトをなつかしく思い、出てこなければよかったと言う。神様の恵みによって解放され、自由になり、約束の地へと旅している歩みにおいて、つらいこと、苦しいことが起こると、過去の奴隷の生活の苦しさを忘れて、かえってそれをなつかしむようになってしまうのです。彼らはさらにモーセたちに、「あなたたちは我々をこんな荒れ野に連れ出して、飢え死にさせようとしている」とすら言っています。奴隷の苦しみから解放してくれた人に対して、これはあまりにもひどい恩知らずの言葉です。イスラエルの民のこの荒れ野の旅は、神様を信じてこの世を生きる信仰の歩みを象徴しています。その中で私たちも、これと同じように神様に恩知らずな態度をとってしまうことが多々あるのです。 このような罪深い人々に、神様は、「マナ」と呼ばれる天からのパン与えて彼らを養ってくださいました。そのことについて、次回お話ししていきます。
牧師 藤 掛 順 一 |
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