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テレホンメッセージ「救いの歴史」(67)「救いの歴史」と題して、旧約聖書出エジプト記についてのお話をしています。エジプトで奴隷とされ、苦しめられていたイスラエルの民が、神様が遣わされたモーセに率いられてエジプトを脱出した、その過程についてお話してきました。それは人間の力による脱出劇と言うよりも、神様の大いなる、不思議な力による解放の恵みでした。海が分かれて向こう岸へ渡ることができたという「葦の海の奇跡」はそのことを象徴しています。 神様の恵みは、エジプトの奴隷状態からの解放に止まるものではありません。神様はモーセを遣わすにあたって、「わたしは彼らを、エジプトから救い出し、乳と蜜の流れる地へと導き上る」と言われました。エジプトを出ると同時に、その神様の約束の地への長い旅が始まったのです。神様は、ご自分の民を、苦しみから救い、解放して下さるだけではありません。とりあえず苦しみの原因は取り除くからあとは勝手にやれ、というのではないのです。神様の恵みは、民がちゃんと生きていける場所、条件を整えて下さるということにまで及びます。神様は、ご自分の民に対して、そのようにきちんと責任を果して下さる方なのです。 エジプトを出たイスラエルの民が、神様の約束の地へと旅していく、その場所は荒れ野です。荒れ野とは、不毛の地、水もなく、食物を得ることができない、つまり人が生きていくことの困難な地です。そういう所をイスラエルの民は旅していかなければなりませんでした。その荒れ野の旅を経なければ、神様の約束の地、乳と蜜の流れる良い地に至ることはできないのです。 このことは、神様の救いにあずかるために私たちが経なければならない試練を象徴しています。神様によって、奴隷状態から解放され、救われる、それは、ただ自由になってめでたしめでたしということではないのです。先ほど申しましたように、神様は、私たちが救われて、新しく生きていけるための条件を整えて下さいます。そこまで責任を持って下さいます。その救いは、一朝一夕には完成しないのです。時間がかかるし、何よりも私たち自身がそこへ向けて歩んでいかなければならないのです。その道は決して平坦な、楽なものではありません。神様を信じて、その救いにあずかって生きることには、常に試練がつきまとうのです。エジプトを出たイスラエルの民の荒れ野の歩みはそのことを象徴しています。その荒れ野でどのようなことが起こっていくのでしょうか。
牧師 藤 掛 順 一 |
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