富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(66)

 「救いの歴史」と題して、旧約聖書出エジプト記についてのお話をしています。神様が海の水を左右に分けて渇いた道をつくり、イスラエルの人々を向こう岸に渡して下さったこと、追いかけてきたエジプトの戦車部隊の上に海の水が返り、彼らは全滅してしまったこと、そういう奇跡によって、イスラエルはついにエジプトの奴隷状態から完全に解放されたことをお話しました。「十戒」という映画でこの場面をごらんになった方も多いことでしょう。海の水が左右に壁のようにそそり立つシーンは壮観でした。

 この出来事は、「葦の海」という所で起ったので、「葦の海の奇跡」と呼ばれています。そしてイスラエルの民は、この葦の海の奇跡を、神様の救いのみ業として繰り返し覚え、記念していきました。詩編の第66編5節以下にそのことがこのように歌われています。
「来て、神の御業を仰げ。人の子らになされた恐るべき御業を。
神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。
それゆえ、我らは神を喜び祝った。神はとこしえに力強く支配し、御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない。
諸国の民よ、我らの神を祝し、賛美の歌声を響かせよ。
神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。」

 そしてこの葦の海の奇跡は、新約聖書においても、神様の大きな救いのみ業として覚えられています。新約聖書の、コリントの信徒への手紙一の第10章1、2節にこうあります。
「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、…」
ここに、「海を通り抜け」とあるのが、葦の海の奇跡のことです。ここでは、この出来事が、「海を通り抜けたこと」として見つめられ、それが、洗礼を受けたことと重ね合わされているのです。洗礼というのは、神様の救いにあずかるために定められている儀式です。昔は全身を水に浸して受けるものでした。その洗礼を受けることと、海の中の道を通ることとが重ね合わされているのです。このように、この葦の海の奇跡は、聖書全体を通して、神様の与えて下さる救いの恵みを代表するものとされているのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年11月26日〜12月9日]

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