富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(51)

 旧約聖書「出エジプト記」についてのお話をしています。モーセがミディアンの地で家庭を築き平和に暮らしている間にも、エジプトで奴隷とされているイスラエルの人々の苦しみは募り、彼らの叫びが主なる神様に届いた、というところまで、前回お話ししました。

ある日、モーセは妻の父でるミディアンの祭司エトロの羊の群れを放牧しながら、神の山ホレブという所に来ました。そこで主なる神様が、燃え上がる柴の中から彼に語りかけたのです。出エジプト記第3章6節以下にこうあります。
 「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
 神様が、イスラエルの人々を、エジプトの奴隷状態から救い出し、乳と蜜の流れる地に導いていく、そのために、神様はモーセをエジプト王ファラオのもとに遣わす、というのです。
 モーセはこれを聞いてこう言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」
 そんなことはできません、ということです。それはそうでしょう。彼も以前は、同胞のために何か出来るのではないか、しなければならないのではないかと思い、エジプト人を打って同胞を助けたりしたのです。しかしそれはすべて何の役にも立ちませんでした。彼は同胞にも受け入れられず、エジプトから逃げ出さなければならなくなったのです。そんな自分が、今さらエジプト王のところに行って、イスラエルの人々を救い出すことなどできるわけがありません。それに彼はもうこのミディアンの地に落ち着き、家族と平和に暮らしているのです。何を好き好んでそのような危険なところにわざわざ出向くことがあるでしょうか。ところが神様はそのようなモーセを召し出して、救いのために用いようとなさるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年4月16日〜4月29日]

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