富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(52)

 「救いの歴史」と題して、旧約聖書「出エジプト記」についてのお話をしています。今その第3章を読んでいるところです。神の山ホレブで、モーセは神様からの語りかけを聞きました。神様はモーセに、奴隷とされ、苦しんでいるイスラエルの人々を、エジプトから救い出すために、私はあなたをエジプトへと遣わすと言われたのです。モーセは、私にはとてもそんなことはできませんと言いました。しかし神様は、「私は必ずあなたと共にいる」と言って、あくまでもモーセを遣わそうとされるのです。ここには、神様の救いの歴史を担う者がどのように立てられるかということが示されています。神様は、人間的に見て力があり、能力があり、自分でも、「自分はこういうことができる」と思っている人を用いようとはなさらないのです。モーセも以前は、自分がエジプト人からイスラエルの民を守るのだ、と意気込んでいました。しかしその営みはことごとく失敗し、挫折したのです。その挫折を経験し、彼がもう自分にはそんなことはできない、自分の力には余ることだ、と思うようになった時、神様はそのモーセを選び、救いの歴史を担う者として立て、遣わされたのです。

 「私は必ずあなたと共にいる」。神様はモーセに、繰り返しそう言われました。神様が共にいて、語るべきことを示し、なすべきことを教え、力を与えて下さるのです。その神様の力によってこそ、救いの歴史は進展していきます。人間の力や努力によることではないのです。自分は何がしかのことができる、と思っている人間よりも、自分には何の力もない、何もできない、という自覚を持っている人の方が、その神様の力によって生かされ、導かれ、用いられていくことができるのです。

 モーセは神様に、同胞たちが、おまえに現れたその神の名は何かと問うたらどう答えたらよいのでしょうか、と尋ねます。すると神様は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになりました。「わたしはある」それが神様のお名前なのです。それは、単に神様はちゃんと存在する、というだけのことではありません。むしろ、動かし難い主体として、主人として存在する、ということです。神様は人間の補助的存在ではなく、主人なのです。神様が主であり、人間は従なのです。そのような主人、主体であられる神様によって、救いの歴史は動かされていく。人間はその神様に生かされ、導かれ、用いられていくのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年4月30日〜5月13日]

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