富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(49)

「出エジプト記」の主人公モーセの生い立ちについてのお話をしています。彼はエジプトで奴隷とされていたイスラエル人、別の言い方ではヘブライ人の子でしたが、不思議な導きによってエジプトの王女の子として育てられました。彼は、自分がイスラエル人であるという意識と、しかしエジプトの王宮の一員であるという現実の狭間で成人していったのです。出エジプト記2章11節以下にこのように書かれています。

 モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返した。

 モーセは、自分がヘブライ人の一人である、という強烈な民族意識のゆえに、同胞を苦しめているエジプト人を打ち殺したのです。それは、露見すればもうエジプトの王宮にはおれなくなる、大変なことでした。ところが翌日、同胞であるヘブライ人どうしのけんかの仲裁に入ったところ、相手にされませんでした。モーセは、正義感に燃えて仲裁に入ったのです。前の日にエジプト人を打ち殺したのも、同胞を守るという正義感からでした。今度は、「同じイスラエル人どうして争っているのはよくない」という思いから、悪い方の男をたしなめたのです。しかし彼の思いは同胞たちに伝わりませんでした。「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」、つまり、「お前の指図は受けない」と言われたのです。そこには、モーセに対する反感が感じられます。奴隷とされ、苦しい目にあっている一般のイスラエル人たちにとって、同じ民族でありながら、王宮に住み、安楽な暮らしをしているモーセは反感の対象でしかありません。彼がどんなに正義感をもって人々を導こうとしても、誰も従いはしないのです。「お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」。モーセは同胞を守ろうとしてエジプト人を殺したのであって、同じイスラエル人を殺すつもりなど全くありません。しかしモーセの、同胞のために尽くそうという思いは全く通じていかないのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年3月19日〜4月1日]

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