富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(4)

 「聖書の人間理解」というテーマでお話をしています。

 聖書は、神様が人間を、「神にかたどって創造された」と語っています。そこに、人間の特別性、尊厳が見つめられている。そしてその「神にかたどって」の意味は、神様とお付合をすることができる、ということだ、神様の交わりの相手として造られたというところに、聖書の見つめる人間の特別性、尊厳があるのだ、という事を前回お話しました。 神様の交わりの相手としての人間、といのはあまりピンと来ない言い方かもしれません。言葉を替えましょう。交わりというのは、対話と言い替えることができます。神様と対話する者としての人間、これならいかがでしょうか。そしてここには、人間は言語を持つ、言葉をしゃべる動物である、ということの意味も明らかになります。人間が言葉を持っているのは、人間どうしで対話をするためだけではなくて、より根本的には、神様と対話をするためなのです。

 ところで対話というのは、語りかけられたことに応答するということによって成立ちます。語りかけられたのに、それを無視していたり、見当違いのことを語っていったのでは対話は成立ちません。語られたことにちゃんと答える、これが大事なのです。そしてこれは、責任をもって生きる、ということにつながります。英語で責任という意味を表わす言葉は、responsibilityですが、これはrespond、応答する、という言葉から来ています。「応答できること」それが「責任」ということなのです。聖書が、人間は神様と対話する者として造られた、と言う時に見つめているのもそのことです。人間は、神様に対して責任を負って生きるべき者として造られているのです。神様は人間に、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とおっしゃって、人間にこの世界の全てを支配し、管理する務めを与えられたと創世記1章28節に書かれていますが、これは、この世界の全てのものを、神様のみ心に従って管理する責任が私たち人間に負わせられている、ということです。ですから、人間の特別性、尊厳というのは、他の被造物に対して威張ったり、好き勝手に支配したりすることができるということではなくて、人間には、他の被造物には負わせられていないような重い責任が与えられている、神様はその責任を私たちに問われるのであって、私たちはそれに答えなければならない、ということです。そういう意味で、人間は神様と対話する者なのです。

牧師 藤 掛 順 一

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