「聖書の人間理解」というテーマでお話をしています。
聖書は、神様が人間を、「ご自分にかたどって造られた」と語っているということをお話してきました。人間は神様に似ている存在だ、そこに、他の動物たちとは違う人間の特別性、尊厳が見つめられているのです。そのことが最もよく現れているのは、創世記1章28節の、神様の人間に対するお言葉です。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。
この言葉は、人間が他の動物たち、また自然界を支配するべき者であることを語っています。そしてこのことが、しばしば、聖書の人間理解は人間の傲慢を生み出していると批判されるところです。人間が他の動物や自然を支配するというのは思い上がりだ、そういう感覚から、例えば今日の環境破壊が起こっているのだ、などとも言われるのです。
けれども、これは聖書の語っていることの誤解です。聖書は、人間が自分の勝手に自然界を好きなようにしてよい、と言っているのではありません。むしろちゃんと見つめるべきことは、人間にそのような特別な立場を与えておられるのは神様だ、ということです。ですからこれは、人間はあくまでも神様の下にある存在だ、ということです。神様の下にあって、神様のみ心に従ってこの世界を管理する立場と責任とを人間は与えられているのです。
ですから、聖書の理解においては、人間は自由と責任、権利と義務の下にある者です。神様は人間に、他の動物たちにはないような自由と権利を与えて下さいました。それと同時に、人間はその神様に対して、責任を負う者、義務を果たすべき者とされているのです。自然に対する人間の傲慢、環境破壊などは、人間がむしろこの神様に対する責任の感覚を失い、自分がこの世界の主人であるかのように錯覚してしまったことの現れでしょう。聖書においては、そのように人間が神の下にある自分の立場を忘れ、自分が主人となろうとすることが「罪」なのです。人間が神によって与えられている自由と権利を間違って用いてしまうことによって、この世界は絶滅の危機に瀕しているのです。今求められていることは、私たちが、聖書の語る人間理解を正しく受け止め、神様の下で、神様に対して責任を負い、義務を果たしていく、という感覚を取り戻していくことなのです。
牧師 藤 掛 順 一
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