富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(3)

 「聖書の人間理解」というテーマでお話をしています。 聖書の人間理解は、この世界を、そして人間を、神様によって造られたものとして見つめる、ということを根本としています。そして、旧約聖書の始めの「創世記」にある天地創造の物語は、神様が、この世界を造り、それを整えて、私たち人間が安心して生きていくことができるようにすべてのお膳立てを整えて下さったという、神様の恵みを語っているのだ、ということを前回お話しました。神様によって造られたというのは、神様の恵みの下にある、ということなのです。今回からは、神様が人間をどのようなものとしてお造りになったのか、ということについてお話していきたいと思います。

 「創世記」の1章27節にこうあります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。ここに、聖書の人間理解の重要な中心が語られています。人間は「神にかたどって創造された」ものである、ということです。ここは以前の翻訳では「神は自分のかたちに人を創造された」となっていました。つまり、私たち人間は、神様の「形」に造られている、人間は神様に似ている、神様の形が、人間の原形、いわば型紙になった、というのです。それは、姿形の問題ではありません。私たちがそうだから、神様も、頭があり、手が二本あり、足が二本ある、そういう形をしているのだ、ということではないのです。この「神にかたどって」という言い方は、人間と神様との間に、他の動物たちにはない特別な関係がある、ということを語っています。「神にかたどって」造られたのは人間だけです。そこに、人間の特別性、尊厳が見つめられていると言うことができるのです。

 その特別性とはどのようなことでしょうか。他の被造物、動物や植物などよりも、人間は一段上なのだ、だからそれらのものを好きなようにしてよいのだ、ということでしょうか。聖書がそのように教えていると誤解をしている人がいますが、決してそうではありません。「神にかたどって造られた」というのは、人間が他の被造物に対して傲慢にふるまうことを許している教えではないのです。「神にかたどって」というのは、神様の交わりの相手となることができる、ということです。平たく言えば神様とお付合をすることができる、ということです。人間はそのような、神様の相手として造られた、そこに、聖書の見つめる人間の特別性、尊厳があるのです。そのことについて、次回さらに深めていきたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一

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