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テレホンメッセージ「聖書の人間理解」(30)旧約聖書創世記第3章を読みながら、「聖書の人間理解」についてお話しています。創世記第3章には、人間の最初の罪のことが語られています。それは、神様が食べてはいけないと言っておられた木の実を食べてしまったということでした。それは、おなかがすいたからつい食べてしまったということではなくて、人間が、神様の下で、神様に従って生きることを束縛と思い、神様から自由になって、自分が主人になって生きようとしたということでした。その罪の結果、神様と彼らの関係が破れてしまいました。しかしそれと同時に、彼ら人間どうしの関係、しかも、その根本である男と女、夫と妻、夫婦の関係が、相手に責任をなすりつけるような、破れたものとなってしまった、ということを創世記第3章は語っているのです。神様に従うことをやめて、人間は確かに自由になりました。しかしその自由は、罪が力を得て働く場となったのです。自由になったとたんに、人間は罪のために他の人と共に生きることができなくなってしまう、人間どうしの関係が破れてしまう、そういう私たちの悲惨な姿を聖書は見つめているのです。 それは決して、自由にならない方がよかった、神様の奴隷であった方がよかった、ということではありません。もともと人間は、神様の奴隷ではなかったのです。創世記第2章に語られていたことは、神様が人間に、ご自分の下で大いなる自由を与えておられたということです。彼らはエデンの園のどの木の実をも好きなように食べてよいという自由を与えられていたのです。しかしその自由の中で、「この木だけはいけない」という小さな禁止が同時に与えられていました。大きな自由と小さな禁止、それが、神様に造られたままの、人間の本来の姿だったのです。それは言い換えれば、与えられている自由を、神様に従いつつ用いて生きるということです。実を食べてはいけない木が園の中に植えられていたことが、そのことを示しています。つまり人間には、その実を食べる自由も、食べない自由も与えられていたのです。食べることもできるけれども、神様に従うために食べないことを選ぶ、そこにこそ、人間の本当の自由があるのです。しかし人間はその自由を、神に逆らい、自分が主人になるために用いてしまった。そこに、人間の悲惨、苦しみの根源があると聖書は語っているのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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