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テレホンメッセージ「聖書の人間理解」(29)旧約聖書創世記第3章を読みながら、「聖書の人間理解」についてお話しています。神様が食べてはいけないと言っておられた木の実を食べてしまった最初の人間アダムとエバは、自分たちが裸であることを知り、神様から身を隠そうとした、ということを前回お話しました。神様のもとで生きることを束縛と思い、自分が主人になって生きようとした人間は、神様を避けて身を隠す者となったのです。しかしそれだけではありませんでした。彼らは自分たちが裸であることを知って、腰を覆うものを造ったのです。それは、彼ら人間どうし、男と女、夫と妻の間に、「隠す」ということが始まった、つまり、人間どうしの関係に破れが生じたということでもありました。
その破れは、11節以下の、神様とアダムとの会話においてはっきりとします。 アダムは要するにここで、責任逃れをしているのです。木の実を食べてしまったことを神様にとがめられ、問いつめられると、「彼女が取ってくれたから食べたのです。私のせいではありません」と、自分の妻に責任をかぶせて言い逃れをしているのです。責任転嫁という言葉は、責任を嫁に転ずると書きますが、まさにそういうことをしているのです。またアダムはここで、自分の妻エバのことを、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」と言っています。それは「自分とは関係がない」とでも言うような、何とも冷たい言い方です。彼女と出会った時には、「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と感動の声をあげたのに、今やその妻のことを、「あの女」呼ばわりです。しかも「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった」という言い方には、神様が余計なお世話をしてあの女を自分と結びつけたからこんなことになったのだ、という思いすら感じられます。つまり、アダムとエバ、男と女、夫と妻との関係は、もはや完全に破れてしまっているのです。神様に背き、自分が主人になって生きよとするときに、私たちと神様の関係が破れるだけではない、人間どうしの、しかもその根本である夫婦の関係が破れてしまう、ということを、聖書はこの物語によって描き出しているのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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