旧約聖書創世記第3章を読みながら、「聖書の人間理解」についてお話しています。最初の人間アダムとエバが、神様に背いて、食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまった。すると彼らは、自分たちが裸であることに気付き、身を隠すようになった。それは、人間と神様との間に、また彼ら人間どうし、男と女、夫と妻との間に、「隠し立て」が起こってきたということであり、それは、お互いの関係が破れてしまったということを意味している、ということを、前回までにお話ししてきました。
アダムとエバが、神様に対して身を隠している姿を、創世記3章8〜10節はこのように描いています。
「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」
自分たちが裸であることを知った彼らは、神様から身を隠そうとするのです。それは、神に背き、もはや神の下で、神に従って生きることをやめ、自分が主人になって生きようとする人間が、神の顔を避けようとする姿です。人間の罪は、このように神の顔を避けようとするところに現れてくるのです。そのように身を隠そうとする人間に対して、神様は、「どこにいるのか」と問いかけられます。「あなたはどこにいるのか」この問いを、私たちは神様から受けているのです。この問いは、「富山にいます」と答えてすませることができるものではありません。これは、私たちの存在の基盤、立ち処、何を土台とし、何を大事にして生きているか、を問い、私たちを神様の前に立たせる問いです。背き去っていく人間に対して、神様はこのような問いをもって臨まれるのです。神様からのこの問いを真剣に受け止めていくところに、私たちが本当に己れをふりかえり、身を正していく道があると言うことができるでしょう。自分で自分のことをふりかえり、歩みを整えようとしても、本当の反省はなかなか生まれません。神様からの「あなたはどこにいるのか」という問いかけによってこそ、私たちは己を正しく振り返ることができるのです。
牧師 藤 掛 順 一
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