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テレホンメッセージ「聖書の人間理解」(26)旧約聖書創世記第3章を読みながら、「聖書の人間理解」についてお話しています。最初の人間アダムとエバは、蛇の誘惑によって、神様が食べてはいけないと言っておられた「善悪の知識の木」の実を食べてしまいました。すると、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」と書かれています。それまで、彼らは裸だったのですが、恥ずかしがることはなかった、裸であることが何の問題でもなかったのです。ところが、神様に背き、神様に従うことをやめて自分が主人になって生きようとした途端に、人間は裸であることができなくなりました。そして「いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」、つまり、腰巻きを造って着たのです。それは、少なくともこの部分は隠さなければ、ということが起こってきたということです。 「隠す」というのは、関係が破れ始めていることの現れです。それまで彼らが裸であったのは、彼らと、彼らを造って下さった神様との関係、また彼ら人間どうし、男と女、夫婦の関係が、何の隠し立てもない、完全なものだったということです。しかし今やそこに、「隠す」ということが始まったのです。 彼らと神様との関係が破れたというのはよくわかります。彼らは神様の下で、神様に従って生きることを束縛、窮屈と思い、自由になって、自分が主人になって生きようとして、禁断の木の実を食べたのです。ですからそれは、神様との関係を断ち切った、ということです。あの木の実を食べたのは、「おなかがすいたから食べてしまった」といような単純なことではないのです。そのことによって、彼らと神様との関係が破れています。だから彼らは、神様から身を隠すのです。8節には、「その日、風の吹くころ(これは夕方になってということです)、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると」とあります。彼らは、神様の顔を避けて隠れる者になったのです。神様の前から身を隠そうとする、それが、神様に背いた人間の根本的な姿であり、「腰巻きを造った」というのは、まず第一にそのことを表しているのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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