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テレホンメッセージ「聖書の人間理解」(25)旧約聖書創世記第3章を読みながら、「聖書の人間理解」についてお話しています。最初の人間アダムとエバが、蛇の誘惑によって、神様が食べてはいけないと言っておられた、いわゆる「禁断の木の実」、「善悪の知識の木」の実を食べてしまう、そこに、人間の最初の罪があったと聖書は語ります。そのことの意味を考えてきました。これは、おなかがすいたからつい食べてしまった、というような話ではありません。人間は、神様の下で、神様に従って生きることを不自由と思い、自分が主人になって、神様から独立して自由に生きようとして、この木の実を食べてしまうのです。そこに、人間の罪の本質があると聖書は見ているのです。 さて、その木の実を食べるとどうなったのでしょうか。7節にこうあります。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。蛇は、この実を食べるとあなたがたの目が開けると言っていました。その通り、彼らの目は開けたのです。それまで見えていなかったことが見えるようになったのです。しかしそこで見えてきたことは、「自分たちが裸だ」ということでした。神様に造られたままの人間は、男も女も、裸だったのです。しかしそれを恥ずかしがりはしなかった、裸であることが何の問題でもなかったと2章の25節にありました。ところが、この木の実を食べたとたんに、「恥ずかしい」という思いが起ってきたのです。それが、木の実を食べて起った変化でした。 裸であるが恥ずかしがっていない、ということの意味は以前にお話しました。それは、何もつつみ隠す必要のない、開かれた、完全な関係が、人間どうし、男と女、夫婦の間にも、また人間と神様の間にもあったということです。ところが今や、恥ずかしい、少なくともこの部分は隠さなければ、という思いが起こってくる。それで彼らは「いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」、つまり、腰巻きを作って着たのです。それは、「隠す」ということの始まりです。神様の下から自由になって、自分が主人になって生きようとした人間に起こってきたことは、この「隠す」ということだったのです。そのことの意味をさらに次回考えていきたいと思います。
牧師 藤 掛 順 一 |
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