富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(18)

 旧約聖書創世記の第2章を読みながら、「聖書の人間理解」についてのお話をしています。前回は23節までを読みましたが、そこまでのところには、人間が男と女という性別を持って造られているのは、神様の恵みのみ心によることである、ということが語られていました。神様は私たちに、向かい合って共に生きるパートナーとして、異性を与えて下さったのです。異性との出会いと交わりによって、私たちの人生は、孤独から救われ、豊かなものとなるのです。聖書は、人間が男と女であることに、そのような、神様の大きな恵み、祝福を見ているのです。

 その次の24節には、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。これは、結婚ということです。一人の男と一人の女が結ばれて、一体となる、それによって一つの家庭が生まれ、それが社会の基本的な単位となるのです。結婚は、一組の男女が向かい合って共に生きるパートナーとしての関係に入ることなのです。ここに、聖書の結婚理解の根本があります。そしてそこから、聖書の結婚理解のいくつかの特徴が生まれます。その特徴をあげてみたいと思います。まず第一に、聖書において結婚は、子供を生むため、子孫を残すためのことではない、ということです。結婚の第一の目的は、一人の男と一人の女が、向かい合って共に生きる関係を結ぶことです。子供は、その関係の実りとして、また神様の祝福として与えられるものですが、それが結婚の目的ではないのです。ですから、たとえ子供が生まれなくても、それによってその結婚が、夫婦が不完全なものであるということはありません。結婚は、家名の存続のためになされるべきことではないのです。別の言い方をすれば、人間の男と女が結婚するのは、動物の雄と雌がつがいになって子供が生まれるということとは意味が違うのです。第二の特徴は、今のことと結びつくわけですが、結婚において、夫と妻の関係が大事なのであって、そこに第三者が介入してはならないということです。つまり、姦淫とか不倫と言われることが罪であるということがここからはっきりとするのです。それは、向かい合って共に生きる相手を裏切ることであり、その相手と向かい合うことをやめてしまうことです。そのこと自体が、結婚の本質を損なう罪なのです。従って浮気や不倫は、誰かに迷惑をかけなければよい、というような事柄ではないのです。

牧師 藤 掛 順 一

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