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テレホンメッセージ「聖書の人間理解」(17)旧約聖書創世記の第2章を読みながら、「聖書の人間理解」についてのお話をしています。前回は21、2節の、女が男のあばら骨で造られたということの意味についてお話しました。それは、女は男のあばら骨に過ぎない、という女性軽視の話ではなくて、男性と女性が、同じ本質を持ったものとして、対等なものとして造られたことを語っているのです。 さて今回はその続きのところを読んでみます。「主なる神が彼女を人のところに連れて来られると、人は言った。『ついにこれこそ、わたしの骨の骨。わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」 これは、女性と出会った男性の喜びの声です。「ついにこれこそ、わたしの骨の骨。わたしの肉の肉」という言葉には、「自分に合う助ける者」、向かい合って共に生きていくパートナーを捜し求めてきた彼が、ついにその相手を見出したという喜びが溢れています。彼はこれまで、野の獣や空の鳥たちと出会い、それぞれに名前をつけてきました。けれどもその動物たちの中には、本当に共に生きる相手は見出せなかったのです。しかし今、神様が、彼とあばら骨を分け合う、同じ本質を持った女性を造って下さり、その女性との出会いが与えられた時、ついに、捜し求めていた相手、パートナーが見出されたのです。 この出会いにおいても、名付けが行われます。男が、新しく与えられたパートナーを「女」と呼び、そう名付けたのです。旧約聖書の原語であるヘブル語では、「男」はイシュ、女はイシャーと言います。ですからこれは、「イシュから取られたものだから、イシャーと呼ぼう」ということです。つまりヘブル語においては、男と女は基本的に同じ言葉の語尾が変化したものなのです。ここにも、男と女が同質のもの、対等のものであることが表わされています。同質、対等であるからこそ、向かい合って共に生きるパートナーであり得るのです。そのような相手を、神様が与えて下さった。そのことを感謝して男と女が共に生きていくことが、聖書の語る基本的な人間のあり方なのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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