富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(19)

 旧約聖書創世記の第2章を読みながら、「聖書の人間理解」についてのお話をしています。その24節に、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。ここに、聖書の結婚理解の根本が語られています。その二つの特徴を前回お話ししました。さらに、第三の特徴があります。それは、「男は父母を離れて女と結ばれ」とある、「父母を離れて」ということです。聖書において、結婚は、一人の男と、一人の女が、その父母、両親を離れて、結ばれ、一体となり、向かい合って共に生きる関係に入ることです。つまり、結婚は、個人と個人の関係です。そこが、日本の伝統的な結婚理解と違うところです。日本の伝統的結婚理解は、家と家の縁組ということでした。ホテルのロビーに、何々家と何々家の結婚式という看板が立っていますが、まさにそこに現れているように、結婚は個人と個人というよりも、家と家の関係であり、その家の家系を絶やさないことが目的とされているのです。それゆえに、前回申したことと関係してきますが、子供が生まれないとその結婚そのものの意味が否定される、いわゆる、「嫁して三年子なきは去る」というようなことが起こってくるのです。しかし聖書の結婚理解においては、そういうことはありません。聖書、特に旧約聖書は、やはり家系の存続ということを一方で非常に大事にしますけれども、女性を子供を生むための道具とするような考え方はないのです。

 このことは別の言い方をすれば、結婚、夫婦の問題において、全ての責任は本人どうしにある、ということです。親も、いわゆる仲人のような者も、そこに介入することはできない。一人の男と一人の女が、本人の責任において夫婦となり、共に生きていくのです。そこに起こってくることの責任を、誰かになすりつけたり、誰かに解決してもらうことはできないのです。

 父母を離れて、というのは、両親と別居しなければならない、ということではありません。同居するか別居するかという問題ではなくて、夫婦が、その主体性をきちんと確立しなければならないということです。精神的にきちんと自立した男女が、自立した家庭を築く、それが聖書の結婚理解の根本なのです。

牧師 藤 掛 順 一

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