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テレホンメッセージ「聖書の人間理解」(13)旧約聖書創世記第2章を読みながら、「聖書の人間理解」についてのお話をしています。 前回は、神様に造られた最初の人間が住んでいた、エデンの園、楽園に、この木の実だけは食べてはいけないという「禁断の木の実」があったということの意味を考えました。 それは、神様が人間に大きな自由を与えておられる、ということです。食べてはいけないと命じられている木があることによって、人間に、それを食べることも食べないこともできる自由が与えられているのです。つまり神様は人間に、ご自分に従うことも従わないこともできる自由を与えておられるのです。ここに、聖書の人間理解の一つの中心があります。神様は、人間に、神様に従うことも従わないこともできる自由を与えておられ、その自由の中で、この木の実だけは食べないということ、つまり、神様のみ言葉に従うことを選び取っていくことを求めておられるのです。「食べることができるのだけれども、食べない」、「従わないことができるのだけれども、従う」ということです。神様は私たち人間とそのような関係を結ぶことを望んでおられるのです。それこそが、聖書の言う「神の愛」です。神の愛は、人間を思い通りになるロボットのようにするのではなくて、自由な者としての関係を結ぼうとするのです。人間どうしの本当の友情や夫婦の真実の関係もそれと似ていると言えるでしょう。相手を裏切るようなことは、それが自分の利益になることでも、またたとえ誰にも気づかれないとしても、しない、そういうある束縛を、強制されてではなくて、相手への愛のゆえに引き受けることこそが、本当の友情であり、夫婦の本来の関係です。そのように、相手との交わりのために、自分の自由を敢えて制限することができることこそ、本当の自由に生きることだと言えるでしょう。神様は、人間を、そのような本当の自由に生きるべき者として造られたのです。 けれども、私たち人間は、この本当の自由に生きることを捨てて、「自分の思い通りにしたい」という偽りの自由を求めていってしまう者です。食べてはいけないと言われている実を食べることが自由だ、と思ってしまう者です。しかしその自由は、神様とのまた隣人との関係の破壊をもたらすものです。自分の自由を主張し、好き勝手をしていれば友情は破壊されていくのです。そのことが、後ほど、創世記の第3章において語られていくのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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