富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(12)

 旧約聖書創世記第2章を読みながら、「聖書の人間理解」についてのお話をしています。

 前回は、2章15〜17節を読み、エデンの園、楽園において、神様のもとで生きていた最初の人間の生活には、「すべての木から取って食べてよい」という大いなる自由が与えられており、同時に「この木からだけは食べてはいけない」という小さな一つの禁止があったということをお話ししました。神様のもとで、神様に従って生きることが人間の本来の姿なのですが、それは決して窮屈な息のつまることではなくて、そこには大きな自由があったのです。しかし、この後の第3章に語られていくように、人間はこの自由を喜ぶのではなくて、与えられていた一つの小さな禁止を束縛と思い、それを破ってしまいます。食べてはいけないと言われていた禁断の木の実を食べてしまうのです。そのことについては、後にお話ししますが、ここでは、食べてはいけない「善悪の知識の木」が、エデンの園の中央にあった、ということについて考えておきたいと思います。この木の実を食べてしまうことによって、人間は神様に背く罪を犯し、その結果エデンの園、楽園を追放されてしまうのです。

 よく出される疑問は、神様はどうして、食べてはいけない木を園の中にわざわざ生えさせておいたのか、そんなものを植えておかなければ、人間がそれを食べてしまうこともなかったのに、ということです。それは、わざわざ園の中央にそんな木を置いておいて、その実を食べるなというのは酷だ。だから人間の罪は神にこそ責任があるのだ、という批判でもあるようです。しかしまさにこのことにこそ、神様が人間に大きな自由を与えておられる、ということの現れなのです。食べてはいけない木が園の中央にあるというのは、人間に、それを食べることも食べないこともできる自由が与えられているということです。つまり神様は人間に、ご自分に従うことも従わないこともできる自由を与えておられるのです。それが、園の中央に食べてはならない木があったことの意味です。その木がなければ、なるほど人間はそれを食べてしまうことはなかったでしょう。しかしそれは神様によって、その実を食べることができない不自由な状態に置かれていた、ということです。神様のもとでの生活には大きな自由がある。その自由は、このように、神様に背き、従わないこともできる程大きな自由なのです。その自由をどう用いるか、が人間に問われているのです。

牧師 藤 掛 順 一

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