富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(11)

 旧約聖書創世記第2章4節以下に語られていることを読みながら、「聖書の人間理解」についてのお話をしています。

 前回は、2章7〜9節を読み、神様が最初の人間アダムを、エデンの園に住まわせられたことを見つめました。そこは、食べるに良いあらゆる木の実が豊富にある、楽園でした。神様の恵みと守りと養いの下で、何の不自由もない生活が与えられている、それが、神様に造られた人間の本来の姿だったのです。

 今回は、2章15〜17節を読んでみたいと思います。
「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 ここに、エデンの園における、最初の人間の生活の姿が示されています。「園のすべての木から取って食べなさい」とあるように、神様は人間に、沢山の、食べることができる木の実を与え、それによって豊かに養っていて下さるのです。しかしそこには同時に、「この木からは、決して食べてはならない」と命じられていた木が一本ありました。それは、園の中央にあった、「善悪の知識の木」です。多くの、実を取って食べてよい木々の中に、一本だけ、これは食べてはならないという、いわゆる「禁断の木の実」があったのです。それが、神様に造られた最初の人間の、エデンの園、楽園における生活でした。それは、神様の下で生きる人間の姿を象徴的に表しています。「すべての木から取って食べてよい」という大いなる自由があり、しかし「この木からは食べてはいけない」という小さな一つの禁止がある、それが、神様を信じ、神様のもとで、神様に従って生きる人間の本来の姿、楽園における生活だったのだ、と聖書は語っているのです。神様のもとで生きることは、決して窮屈な、縛られた生活ではありません。むしろ大きな自由がそこにはあり、また神様からの豊かな養いと恵みがあるのです。しかし、これだけはいけない、という禁止、人間として守らなければならない分というものも同時にあります。それは、私たちを縛りつけるための禁止ではなくて、自分が神様のもとにあり、神様に従って生きているということの印なのです。しかし、人間はその分を越えていってしまう、そのことは後でお話しすることになります。

牧師 藤 掛 順 一

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