富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(10)

 旧約聖書創世記第2章4節以下についてのお話しをしていたところでした。今回からは、そこに語られていることを順を追って見ていきたいと思います。それによって、ここにどのような人間理解があるのかを考えてみたいのです。

 まず、2章7〜9節を読んでみます。
 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」

 最初の人アダムが、土(アダマ)の塵で造られたということについては、既にその意味をお話ししました。そこには、繁栄の中でおごり高ぶっている人々に対して、人間は本来土の塵に過ぎないものであり、神様が命の息を吹き入れて下さったからこそ生きることができる者である。その息が取り去られれば、人間はたちどころに土に帰っていくのだ、ということが見つめられているのです。しかし、そういう人間の弱さ、はかなさだけが語られているわけではありません。むしろ、土の塵に過ぎない人間に、神様が大きな恵みを与え、命を与え、また住む所を与え、その生活を支える糧を与えていて下さることがここに見つめられています。最初の人間は、「エデンの園」に住まわせられていたのです。そこは、食べるに良いあらゆる木の実が豊富にある、楽園でした。神様の恵みと守りと養いの下で、何の不自由もない生活が与えられている、それが、神様に造られた人間の本来の姿だったのです。ここには、人間は神様の恵みの下にある、という聖書の基本的人間理解が示されています。神様は、土の塵に過ぎない私たち人間に、命を与え、生きるための様々な備えを与えていて下さるのです。「エデンの園」の話によって、聖書はそのことを先ず語っているのです。

牧師 藤 掛 順 一

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