富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(9)

 前回から、旧約聖書創世記第2章4節以下に語られている「聖書の人間理解」についてのお話をしています。
 2章4節以下には、人間が、「土の塵」から造られ、神様がその鼻に命の息を吹き入れられたことによって、人間は生きたものとなった、ということが語られています。そこには、土から取られ、土に帰っていく、という人間の弱さ、虚しさが見つめられています。
 この2章4節以下が書かれたのは、創世記第1章が書かれた時代よりも何百年も前のことであると言われます。第1章が書かれたのは、紀元前六世紀、イスラエルの民が国を滅ぼされ、バビロンに連れ去られていた、苦しみの時代であることを前に申しました。それに対して、この2章4節以下は、紀元前十世紀ごろ、イスラエルの歴史においては、ダビデ、ソロモンの王国時代に書かれたものであると言われるのです。このダビデ、ソロモン時代というのは、イスラエルの歴史の中でも最も国が栄えた時代です。そのような豊かさ、繁栄の中で、この、人間は「土の塵」から造られたという物語が生まれたのです。それは、繁栄の中で、自分を立派な、ひとかどの者だと思い、自分たちの力で何でもできるかのように思っている人々の思い上がりに対する警告であると言うことができます。人間は、土の塵に過ぎない存在であり、神様が命の息を吹き入れて下さったから生きることができるのであって、その命の息が取り去られれば、たちまち土の塵に帰っていく者なのだ、ということです。第1章が、国の滅亡、他国への捕囚という絶望、苦しみの内にある民に、神様はこの世界を秩序ある、良いものとして、私たちのために整えて下さり、そこに住まわせて下さっている、また私たち人間も神様の目から見て「極めて良い」ものとして造られている、ということによって、生きる希望を与えようとしているのと対照的に、この第2章4節以下は、思い上がりの内にある民の天狗の鼻をへし折り、神様の前で真実に謙虚になることを求めているのです。このことも、聖書の人間理解のもう一つの根本です。聖書は、このように違った時代に書かれた二つの創造物語を並べることによって、この世界を治める者として立てられている人間の尊厳と、土から出て土に帰っていく人間の弱さ、はかなさを共に見つめているのです。そしてそれはいずれも、人間は神様に造られ、神様のもとにある、ということから導き出される人間の真実なのです。

牧師 藤 掛 順 一

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