前回から、「救いの歴史」というタイトルで新しいシリーズを始めています。
ところで、以前にお話ししたことですが、この「救いの歴史」のシリーズでお話ししていくのは、旧約聖書の創世記の第12章以下についてです。創世記の第11章までについては、「聖書の人間理解」というタイトルでこれまでにお話ししてきました。このタイトルの違いに注目していただきたいと思います。創世記の12章からが、「救いの歴史」なのです。つまり、聖書において、「歴史」は創世記12章から始まるのです。それ以前の11章までは、「歴史」ではありません。「聖書の人間理解」というタイトルが示しているように、歴史の前提となる、この世界のまた人間の本質、また人間と神との関係の本質がそこには描かれているのです。聖書を読む時に、このことをわきまえておく必要があります。創世記1〜11章を、12章以降と同じ感覚で読もうとすると、聖書が語っていることの真意がわからなくなってしまうのです。例えば天地創造の物語を、歴史の中に位置づけて、これは紀元前何年のことか、科学の説明する地球や生物の成り立ちといったいどちらが正しいのか、ということを考えてみても、それは不毛なことです。天地創造の物語はそのように読むべきものではないのです。そこには、歴史の前提となる聖書の人間理解、世界理解が語られているのです。別の言い方をすれば、12章以下で語られていく歴史の舞台設定がなされているのです。これまで、「聖書の人間理解」のシリーズで、その舞台設定を見てきました。その上で、いよいよこれから、「救いの歴史」をひもといていくのです。この歴史は、創世記だけに語られているのではありません。旧約聖書の全体、そして新約聖書にそれが引継がれていきます。そしてその救いの歴史は、今、私たちをも巻き込んで継続しているのです。その救いの歴史の中を生きるために、教会の日曜日の礼拝が行なわれているのです。富山鹿島町教会では、毎週日曜日の午前10時20分から礼拝を守っています。教会の礼拝はどなたでも参加することのできる開かれたものですから、あなたもどうぞご出席下さい。421-1610にお電話を下されば、教会のご案内をお送りします。また、「聖書の人間理解」のシリーズと、この「救いの歴史」のプリントが用意されています。ご希望の方にはお送りしますので遠慮なくお申し出下さい。
牧師 藤 掛 順 一
[1999年4月19日〜5月2日]
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