富山鹿島町教会
「救いの歴史」→(2)

テレホンメッセージ

「救いの歴史」(1)

このテレホン・メッセージでは、前回まで、「聖書の人間理解」と題してシリーズでお話しをしてきました。今回からは、新しいシリーズとして、「救いの歴史」というお話しを始めたいと思います。

まずはじめに、「救いの歴史」というタイトルについて、お話しをしておきたいと思います。聖書は、人間の救いについて語っている書物です。古今東西の宗教は皆、何らかの形で、人間の救いということを問題にし、そこへの道を示そうとしていると言うことができるでしょう。しかし、救いと一言で言っても、その内容は、宗教によってかなり異なっています。それぞれの宗教の特徴がそこに出ているのです。聖書の語る救いの著しい特徴は、救いが、歴史を持っている、あるいは、歴史と関わるものであるという点です。例えば仏教においては、救いは、歴史とは関わりを持たない、と言うよりも、歴史を超越することこそが救いだということになるでしょう。しかし聖書においては、救いは歴史と関わります。歴史を超え出た所に救いがあるのではなくて、歴史の中での救いが語られます。いや、救いそのものが、歴史を持っているのです。

歴史というのは、人間の営み、歩みです。この世の歩みと言ってもよいでしょう。聖書はその中での救いを語る、と言うと、それは現世的ご利益があるということか、と思われてしまうかもしれませんが、そういうことではありません。「現世的ご利益」ということと、歴史とは実は相いれないのです。何故なら、「現世的ご利益」によって見つめられているのは、自分という一人の人間の生きている間のことだけであるのに対して、歴史というのは、一人の人間の一生をはるかに超えたものだからです。自分の人生しか見つめていないということは、歴史を見つめてはいないということなのです。

けれども、自分の人生を超えた歴史を見つめる時、私たちはそこで虚しさを感じます。悠久の大河のような歴史の流れの中で、自分はちっぽけな水滴に過ぎないことを感じます。諸行無常の響きを感じるのです。聖書が語るのは、その歴史の中に、神が来られ、神の救いのみ業がその歴史の中で行われている、ということです。神が人間の歴史に関わっておられるがゆえに、歴史は無意味なものではないということです。そのことを知る時に、歴史の中の小さな一こまに過ぎない私たちの人生も、意味あるものとされるのです。聖書が語る歴史の意味とは何か、それをご一緒に考えていきたいと思います。

   

牧師 藤 掛 順 一
[1999年4月5日〜4月18日]

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