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テレホンメッセージ「救いの歴史」(17)
創世記第22章を読んでいます。 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。(4〜10節) 神様に献げる小羊はどこにいるのですか、という息子の問いに対して、アブラハムは、「それはきっと神が備えてくださる」と言っています。しかしそれは、その場所へ行けばイサクの代わりに献げるべき小羊が必ず備えられているに違いない、と彼が思っていたということではありません。その場所に着いた彼は、どこかに小羊はいないかと捜すのではなく、すぐに祭壇の準備をし、そしてイサクを縛って薪の上に置き、まさに殺そうとしたのです。まことに不可解な、理解できない、納得できない話です。この話はいったい何を語りかけているのでしょうか。次回以降をぜひ続けてお聞きいただきたいと思います。
牧師 藤 掛 順 一 |
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