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テレホンメッセージ「救いの歴史」(18)神様はアブラハムに、独り息子のイサクを、焼き尽くす献げ物として献げよとお命じになりました。そのとんでもない残酷な命令を受けたアブラハムは、しかし、神様がお命じになったことをその通りに実行しようとしたのです。彼が息子を縛ってまさに殺そうとした時、神様が語りかけました。創世記22章12節以下です。 「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。 神様はどたん場で、イサクの代わりの雄羊を備えて下さったのです。しかしそうであるにしても、この話は私たちにとって、あまりにも納得できないことが多いのではないでしょうか。神様は何故あんな命令をアブラハムに与えたのでしょうか。「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」とありますが、神様はアブラハムがどこまで命令に従うかを試したのでしょうか。神様はそんなに疑り深い方なのでしょうか。また、信仰を試すにしても、息子を殺して献げよというような残酷なことを命じるなんて、あまりにもひどすぎる。そんなことを命じるような神を信じたくはない、とすら思います。またアブラハムの行動も私たちには不可解です。彼は何故黙って神様の命令をそのままに実行しようとしたのでしょうか。どうして、神様に抗議したり、「そんなことはできません」と言わなかったのでしょうか。それとも、彼にとっては息子の命よりも神様の命令の方が絶対で、神様がお命じになるのなら、息子ですら殺すのが当たり前だったのでしょうか。信仰というのはそんなふうに、一切の私情を排して神様に絶対服従することなのでしょうか。聖書はアブラハムのそのような信仰をほめたたえ、私たちにもそのような信仰を持つようにと教えているのでしょうか。そうであるならば、そんな信仰はご免だと私も思います。この話はそのように、様々な疑問や、納得できない問いをひき起こすものなのです。その疑問に対する答えを次回以降捜し求めていきたいと思います。 なお次回は、12月13日から新しい内容になりますが、「救いの歴史」のシリーズはお休みをいただき、私共富山鹿島町教会のクリスマスの集会のご案内をしたいと思っています。この続きは12月25日以降ということになります。
牧師 藤 掛 順 一 |
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