富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(103)

 「救いの歴史」と題して、旧約聖書についてのお話をしています。今は、出エジプト記第20章にある「十戒」を学んでいます。十戒は神様がイスラエルの民にお与えになった十の教え、戒めです。それを一つずつとりあげてお話をしてきました。今回から、その第7の戒めに入ります。それは、「あなたは姦淫してはならない」という教えです。

 「姦淫」などという言葉は、今では全く使われなくなりました。死語になってしまったと言ってもよいかもしれません。今の言葉に言い直すならば、「不倫」です。「あなたは不倫をしてはならない」と聖書は教えているのです。

 姦淫、不倫というのは、妻あるいは夫のある男性または女性が、他の異性と関係を持つことです。あるいは、自分は独身であっても、妻あるいは夫のある男性または女性と性的な関係を持つことです。つまり、自分のであれ、他の人のであれ、結婚の関係をおろそかにし、それを破壊するような行為です。自分が結婚しているのに他の人と関係を持つことは、自分の結婚、夫婦の関係を損なうことだし、結婚している人と関係を持つことも、その人の結婚、夫婦の関係を損なうことです。それらの全てを姦淫というのです。

 この第7の戒めについて、イエス・キリストの語られた教えが、マタイによる福音書第5章27節にあります。口語訳聖書ではこうなっていました。「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。キリストはここで、実際に肉体関係を持つことはなくても、心の中で既に姦淫の罪を犯すことがある、と言っているわけですが、それが、「情欲をいだいて女を見る」と訳されていたために、異性に対して性欲を抱くこと自体が姦淫の罪に当たる、という理解が生まれました。けれども、この教えはそういう意味ではありません。新しい新共同訳聖書ではこうなっています。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。「女」が「他人の妻」に変わっています。どちらにも訳せる言葉なのですが、姦淫の罪の根本的な意味からすれば、「他人の妻」の方が相応しい訳です。この戒めは、性欲そのものを罪としているのではなくて、自分のであれ他人のであれ、結婚、夫婦の関係を大切にしなければならない、相手を裏切って、あるいは裏切らせて、夫婦の関係を破るようなことをしてはならない、ということを語っているのです。

 聖書において、結婚の関係というのはそれほどに重い、大事なものなのです。そのことの一つの現れが、この十戒の第7の戒めなのです。では何故聖書が結婚をそれほどに重んじるのか、それを次回お話ししたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年6月30日〜7月13日]

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