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テレホンメッセージ「救いの歴史」(104)「十戒」の第7の戒め、「あなたは姦淫してはならない」についてのお話を続けます。この戒めは、自分のであれ他人のであれ、結婚、夫婦の関係を大切にすることを教えているのだと前回申しました。それでは何故聖書は結婚をそれほどに重んじるのでしょうか。それについては、旧約聖書、創世記の第2章18節以下を読まなければなりません。そこには、神様が人間を男と女とに造り、一人の男と一人の女が結婚して一体となることを祝福されたことが語られているのです。 そもそも人間が男と女として作られているのは、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という神様のみ心によることでした。それは、男と女が向かい合って共に助け合いながら生きることを神様がお望みになり、またそのことを祝福されたということです。人間の男女は、動物の雄と雌とは違って、ただ子孫を残すために、種の保存のためにつがいになるのではないのです。同じ人間であり、しかし違いのある男と女が、パートナーとなって共に生きることこそが、人間が男と女とであることの意味なのです。そのことが具体的には、一人の男と一人の女が出会い、それぞれその両親を離れて一体となる、結婚において実現するのです。従って結婚の意味は、肉体的、性的な関係というよりも、もっと人格的なものです。聖書においては、結婚は家と家の縁組みではないし、子孫を残すための手立てでもないのです。子供は、一体となって生きる夫婦に、神様が祝福として与えて下さるものであり、従って子供が生まれるか否かで結婚の価値が決まることはないのです。 イエス・キリストは、創世記に語られているこの結婚についての神様のみ心を受けて、「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と語られました。結婚は神様の祝福である、それは言い換えれば、神様が二人を結び合わせて下さったということです。夫婦を結び付けているのは、お互いの愛情や利害であるよりも、まず第一に、神様の恵みのみ心なのです。そのことを受け止めるならば、相手との関係を本当に大切にすることが求められるのです。自分のわがままな思いで、いやになったから離婚する、というわけにはいかなくなるのです。そして「姦淫」は、神が合わせて下さった夫婦の関係を破壊することです。浮気、不倫は、どんなに美しく、情熱的なものに見えても、結婚を祝福し、夫婦を結びつけておられる神様のみ心への反逆なのです。 結婚というものをそのように受け止めることを、聖書は教えています。それゆえに、教会における結婚式では、新郎新婦に、「相手が健やかな時も病む時も、堅く節操を守る」と誓うことが求められるのです。それを堅苦しい束縛と考えるならば、結婚はしない方がよいのです。このような誓いをお互いがして、共に生きる意志をもって歩むのでなければ、結婚、夫婦が本当に祝福されたものとなることはないでしょう。
牧師 藤 掛 順 一 |
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