富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(7)

アブラムという人が、75歳にして、神様の呼び掛けを受け、あなたを全人類への祝福の源とする、という神様の約束を信じて、行く先を知らずに旅立ったことから、聖書における人間の救いの歴史が始まったという、創世記第12章のお話をしています。
この旅立ちのゆえに、アブラムは「信仰の父」と呼ばれるようになりました。信仰とは、神様の祝福の約束を信じて、それまでの日常から、未知の世界へと旅立ち、神様の導きに身を委ね、それに従っていく生活に入ることなのです。

アブラムが旅立ったのは、ユーフラテス川の上流のハランという町でした。彼はそこから南下して「カナン」と呼ばれる地に入りました。そこが、今日のいわゆるパレスチナ、イスラエルとヨルダンとにまたがる地域です。彼がその地に来た時、神様が彼に現れ、「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われました。創世記12章7節です。この神様の言葉によって、このカナンの地こそ、神様がアブラムに与え、彼の子孫が定住することになる「約束の地」であることが示されたのです。信仰は、行く先を知らずに旅立つことだと申しましたが、それは、いつまでも行く先がわからずに当てもなく放浪していくような歩みではありません。行く先は、目的地は、神様によって示され、与えられるのです。

しかしここで、「あなたの子孫に」と言われていることに注意しなければなりません。カナンの地を与えられるのは、アブラムではなくて、その子孫なのです。アブラムには、この旅の目的地であるカナンの地が示され、それを与えるという約束が与えられました。その約束が実現するまでには、なお多くの時が必要だったのです。このことは私たちの信仰の歩みの本質をよく現しています。信仰は、望む祝福をてっとり早く獲得するための手段ではありません。信仰において私たちは、神様から旅路の目的地を示され、その目的地に到着させて下さるという神様の約束の言葉を与えられて、それを頼りに、将来その目的地に到達することを信じ、望みながら、一歩一歩歩んでいくのです。信仰の歩みには時間がかかります。忍耐が必要です。将来の約束を信じて、今の苦しみに耐えることが求められます。アブラムの生涯はそのような歩みでした。それゆえに彼は「信仰の父」と呼ばれるのです。

                          

牧師 藤 掛 順 一
[1999年6月27日〜7月11日]

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