富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(62)

 「救いの歴史」と題して、旧約聖書出エジプト記についてのお話をしています。エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトを出ることができた。その出エジプトを可能にした過越の出来事についてお話してきました。神様がエジプト人の全ての初子を撃ち殺すという災いを与えられた時、イスラエル人の家は、災いを与えずに過ぎ越した、通り過ぎたのです。この救いの出来事から、これまでお話してきた「過越の祭」が生まれたのですが、それに加えてもう一つ、イスラエルの人々の間で言い伝えられ、守られていったことがあります。そのことを語っている出エジプト記第13章11節以下を読んでみます。

 主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』

 イスラエルの全ての初子は主なる神様のものである。家畜であればそれを神様にささげ、人間の場合は「贖う」、つまり身代わりとして他のものをささげる。そのようにして過越の出来事を覚え続けていくのです。
 つまり、過越の出来事は、イスラエルの人々にとって、自分たちは助かってよかった、という安易なことではなかったのです。エジプトの初子は皆殺されたのに、自分たちの初子は死なずにすんだ、そのことは、自分たちの初子も神様にお捧げすべきものだったのに、神様の恵みによって自分たちの手許に残された、ということだったのです。自分たちの命が、人生が、生活の全てが、神様によって許されて与えられているものだという信仰がそこにはあるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年10月1日〜10月14日]

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