富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(54)

 モーセに現れた神様が、ご自分のお名前を、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われたことについてお話をしてきました。それは、神様が、人間の思い通りになる方ではなく、ご自分の意志によって行動する動かし難い主体として、主人として存在するということを表す名前でした。そのような神様が、ご自分の意志によって、奴隷とされて苦しんでいるイスラエルの人々のために立ち上がり、彼らを救うために、自分にはとうていそのようなことはできないと思っているモーセを選んで遣わされるのです。モーセによるイスラエルの民のエジプトからの脱出の物語、即ち「出エジプト記」は、モーセという偉大な英雄の物語ではありません。「わたしはある、わたしはあるという者だ」と言われる神様の救いのみ業の物語なのです。

 しかしモーセは、「主なる神様が自分に現れたと言っても、人々は信じようとしないでしょう」と言って抵抗します。神様はモーセに、ご自分が確かに彼に現れ、彼を遣わしたことを示すいくつかのしるしを与えて下さいます。その一つは、杖を投げるとそれが蛇に変わる、という奇跡でした。そのようなしるしを与えられてもなお、モーセは、「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません」と言って断ろうとします。それに対して神様はこう言われました。
「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」

 人間に、口や耳や目を与え、しゃべれるように、聞こえるように、見えるようにしておられるのは神様なのです。私たちが自分に自然に備わっていると思っているそれらの能力の全てが、神様の恵みによって与えられているものなのです。そして神様は時としてその私たちの能力を、ご自分のみ業のために、人々を救うために用いようとなさるのです。その時に私たちが、「そんなことはできません、私にはそんな力はありません」というのは、謙遜なように見えて、実は神様が自分に与えて下さった恵みを否定して、自分の好き勝手に生きようとする傲慢です。神様が選び、遣わされたからには、どんなに口下手な者でも、神様が共にいて下さり、語るべきことを教えて下さるのです。そのことを信じて、与えられた使命を引き受けることこそ、神様の前に本当に謙遜な人間の姿なのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年5月28日〜6月10日]

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