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テレホンメッセージ「救いの歴史」(38)創世記32章25節以下の、ヤコブが、ヤボク川のほとりで、神様の使いと格闘した、ということについて、お話ししています。ヤコブは、神様の使いと格闘したのです。そのことを通して彼は、神様の祝福を勝ち取りました。彼がみ使いに「あなたのお名前を教えてください」と尋ねても教えてもらえませんでしたが、み使いは彼に、その後彼の子孫の民族の名となる「イスラエル」という新しい名前を与えてくれたのです。また彼は、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言いました。名前を与えられたことも、神様の顔を見たことも、彼に与えられた祝福の印でした。つまりヤコブはここで、神様と出会い、交わりを持ち、そして神様の祝福を得たのです。 私たち人間は、神様を直接に見ることはできません。また、この話に示されているように、神様のお名前を知ることもできません。人間がその目で見たり、知ったりすることができるのは、つまり人間の認識の範囲に入ってしまうのは、まことの神様ではありません。この世界を、そして私たち人間をお造りになった神は、私たちが見たり、わかってしまったりすることのできない方なのです。しかしその神様が、私たちと出会って下さいます。私たちにご自身を示して下さり、交わりを持って下さるのです。神様がご自身を示して下さるから、私たちは神様を信じ、神様と共に歩むことができるのです。ですから私たちとしては、神様が示して下さるそのお姿と向かい合っていくことが大事なのです。私たちが自分の頭であれこれ考えて、神様とはこのような存在か、と思っても、それはみな人間の知識や経験の範囲内のことであって、本当の神様との出会いにはならないのです。 そのような生きたまことの神様との出会いが、「格闘」という言葉で言い表されていることに注目したいと思います。神様と出会い、神様を知るようになる、そこには、格闘とも言うべき真剣な向かい合いがあるのです。それが信仰と呼ばれるものです。それは決して安易な、楽なことではありません。しかしその格闘にも喩えられる真剣な神様との向かい合いの中から、神様の祝福が与えられ、新しい名前が与えられる、つまり私たちの人生が本当に新しくされるすばらしい出会いが与えられるのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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