富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「救いの歴史」(34)

 ヤコブが、自分が騙して長男としての特権と祝福を奪い取ってしまった兄エサウとの20年ぶりの再会への不安をかかえつつ、ヤボク川という川を渡ろうとしていた夜のことです。創世記32章25節以下にこのように書かれています。

 そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

 これは、よくわからない不思議な話です。ヤコブが何者かと一晩中格闘をしたというのです。その相手は、「人」とも言われていますが、実はそれは神様だった、とも書かれています。ただの人間ではない、何だかよくわからない相手と、ヤコブは格闘した、組み打ちをしたのです。そして、ヤコブが勝ったのだと言われています。相手はヤコブに勝てないので、「もう去らせてくれ」と言ったのです。しかしヤコブは離しませんでした。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と言ったのです。ヤコブは、格闘をしているうちに、この相手はただの人間ではなくて、神様の使いだ、ということに気づいたのでしょう。彼は神様の使いを組み伏せて、「私を祝福してください、祝福して下さらなければ離しません」と執拗に求めたのです。神様のみ使いに対して何ということをするのか、とも思います。けれどもそこに、ヤコブの必死の思いが見てとれます。兄エサウとの再会の不安の内にあったヤコブは、前回お話ししたようにいろいろと手をつくして兄の心をなだめようとしました。しかしどのように準備をしても、不安はぬぐい切れないのです。そのような中で、最終的に支えとなるのは、そういう人間の工夫や努力ではなくて、神様の祝福です。神様の祝福をいただけるかどうかが、不安から解放されるための鍵なのです。このヤボクの渡しにおける話について、次回も続いて考えていきたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年8月1日〜8月13日]

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