富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(56)

 旧約聖書、創世記第11章にある「バベルの塔」の物語を読みながら、聖書の人間理解についてお話ししています。人々が、天に届くような高い塔を建てて、神と肩を並べようとしたというのが、バベルの塔建設の意味でした。それに対して神様がどうなさったか、それが11章5節以下に語られています。
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

 ここで、神様が、「我々」と言っているのは、神様が複数いるということではありません。この複数形は、神様の力や尊厳を現すために用いられたもので、聖書の信仰においては、神様はただお一人です。その神様が、バベルの塔を見て言われたことは、人間が皆一つの民であり、一つの言葉を話していることが、このような傲慢、思い上がりを生んでいる、だから、その言葉を乱し、互いに相手の語る言葉が理解できないようにしよう、ということでした。この神様のみ心によって、世界には沢山の違った民族、違った言語があることになり、私たちは外国語の勉強に頭を悩ませなければならなくなった、というのがこの話です。

 これを、人間の言葉はもともと一つだったのが、神様によって混乱させられ、いろいろな言葉になった、ということとして読むと、神様はずいぶんひどいことをする、人間をわざとそんなふうに混乱させるなんて、ということになります。けれども、この話の成り立ちというのはむしろ、世界にはいろいろな違った言葉があって、外国人には話が通じない、という現実が先にあり、そのことの意味、あるいは起源を語るためにこのような話が生まれたということでしょう。聖書を書いた信仰者たちは、この、言葉の相違による意志疎通の困難という現実を、信仰において受け止め、このように、その根本に人間の神様に対する罪、自分が神のようになろうとした傲慢がある、と考えたのです。ですからこの話から私たちが読み取るべきことは、神様はなんてひどいんだ、ということではなくて、言葉が違って話が通じない、という事態を聖書が信仰的にどのように受け止めているかという、まさに聖書の人間理解なのです。

牧師 藤 掛 順 一

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