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テレホンメッセージ「聖書の人間理解」(36)旧約聖書創世記を読みながら、「聖書の人間理解」についてお話しています。今回から、第4章に入りたいと思います。第4章1節にこう語られています。「さて、アダムは妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った」。最初の人間アダムの妻はエバという名でした。その名の意味は、3章20節に語られていました。「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである」。エバとは「命」という意味であり、その名の通り、新しい命カインを産んだのです。 ここに、アダムが妻エバを知った、という言い方が出てきます。すると彼女は身ごもり、子供を産んだのです。つまりこの「知った」という言葉は、相手を単に知識として認識したということではなくて、肉体関係を結んだということです。そのことが、夫が妻を知った、というふうに表現されているのです。そこにはやはり、聖書の人間理解、結婚理解が現れています。結婚は、雄と雌がつがいになり、肉体関係を持つことによって子供が産まれる、ということとは違うのです。一人の男と一人の女が、お互いに相手を深く知る、全人格的に知る、ということが結婚の意味です。そしてその結果として、神様の祝福によって、子供が与えられるのです。エバは「わたしは主によって男子を得た」と言いました。子供を与えて下さったのは主なる神様なのです。「子供は神様からの授かりもの」という言い方がありますが、聖書においてはまさに文字通りそう考えられているのです。そしてそこには、今日問題になっているいわゆる「生命倫理」についての、聖書の基本的な考え方が現れています。つまり、命は神様が与えて下さるものであって、人間が自分の都合でそれを管理することには問題がある、ということです。子供は「つくる」ものではなくて、神様から「与えられる」ものなのです。それを、自分たちが「つくる」かのように考え、思い通りにコントロールしていこうとすることは、人間が神になろうとすることであり、つまり、第3章に語られていた、アダムが犯したあの最初の罪と同じことになっていくのです。
牧師 藤 掛 順 一 |
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