富山鹿島町教会
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テレホンメッセージ

「聖書の人間理解」(21)

旧約聖書創世記を読みながら、「聖書の人間理解」についてのお話を続けています。今回から、創世記第3章に入っていきたいと思います。しかしその前に、第2章に語られていたことをかいつまんで確認しておきましょう。第2章には、主なる神様が土の塵から人間のまず男性を造り、命の息を吹き入れて生かして下さったこと、その人間はエデンの園と呼ばれる楽園に住んでいたこと、そしてその男性と向かい合って共に生きるパートナーとして、女性が造られ、男女の結婚が基礎づけられたことが語られていました。それらはいずれも、神様の祝福、恵みのみ業として語られていたのです。この第2章からわかることは、聖書の人間理解は、人間は神様の祝福、恵みによって造られ、生かされているということを根本としている、ということです。

 第3章はその第2章の続きなのですが、そこには今度は、人間が、第2章に語られていた神様の祝福を失ってしまう、ということが語られています。具体的には、あのエデンの園、楽園から追放されてしまう、楽園を失ってしまう、いわゆる「失楽園」の話です。「失楽園」というと今は全然別の小説のことが思い浮かべられてしまいますが、もともとはそれは、聖書の、創世記第3章の物語のことだったのです。

 人間はどうして神様の祝福を失い、楽園を喪失してしまったのでしょうか。それは人間の罪によることです。その人間の罪の本質が、この第3章の物語によって描き出されています。人間は罪に堕ちたために、神様の祝福を失ってしまっている、それが、創世記第3章の語る聖書の人間理解なのです。聖書の人間理解はこの第2章と第3章の両面を持っています。どちらか片方だけでは、全体を捉えたことにはなりません。人間は、もともとは、第2章における祝福と恵みの中で造られたものだが、第3章における、罪とその結果としての楽園喪失こそ、私たちの現在の状況であるというのが、聖書の人間理解なのです。第3章を読んでいくことによって、聖書の人間理解の深みへと踏み込んでいくことができるのです。

牧師 藤 掛 順 一

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